大阪「模擬原爆」投下から70年 若者に語り継ぐ元教師の思い
大阪「模擬原爆」投下から70年 若者に語り継ぐ元教師の思い THE PAGE大阪
1945年7月26日、大阪市東住吉区田辺(当時は田辺本町)に大きな爆弾が投下され、7人の命が奪われた。当時から「1トン爆弾が落ちた」と言われていたが約50年後、それは米軍が広島や長崎に原爆を投下する前後に練習のために全国49か所に投下した「模擬原爆」であったことが判明した。田辺に投下された時、爆心地近くの工場にいた龍野繁子さん(90)は現在、当時のことを学生ら若者に語り継いている。あす26日に模擬原爆犠牲者の慰霊碑前で行われる追悼式典でも話をする予定だ。だが、最近まではこのことを話すことができなかったという。それは、あまりにもむごい惨状、そして近所の知人を亡くしたショックがあまりにも大きかったからだという。
もし部屋を移動していなかったら
龍野さんは当時、広野国民学校(現在の大阪市立摂陽中学校・平野区)の教師をしていた。師範学校を卒業して2年目の先生はその日の朝、当時受け持っていた20人の生徒を連れて田辺にあった海軍士官のボタンを作る工場にいた。当時は若い男性は兵隊に召集される、そうなると国内で物を作り整理するのは学生の仕事。いわゆる「学徒動員」で工場へ行っていた。 だが、工場長からは「先生きょうも材料が入ってませんねん」という言葉が。「当時はボタンを作る金属の材料もなく、竹でボタンを作ったりもしていた」と龍野さんが語るように、原料不足で思うように働くことができなかったという。 そこで工場長から「隣の部屋で勉強して」と言われ、生徒らとなんの授業をしようかと相談した時、隣の部屋で「バリバリバリ」「ドスン」という大きな音がした。見てみると、2階建ての工場の屋根を突き破り、大きな石が1階の床下まで落ちていたという。 「石は大人でも両手で抱えきれないほどのものでした。爆心地が料亭「金剛荘」でそこの日本庭園にあった石と聞きました。そんな石が150メートルも空を飛んでここまできたんです。つぶれた部屋はついさっきまで私たちがいた部屋。もし、社長さんに隣の部屋で勉強してと言われなかったら...私たちは命拾いしました」