『光る君へ』彰子と最愛の人を結んだ「百錬鏡」とは?一条天皇の「辞世の句」を途切れさせたドラマ演出の意味
『源氏物語』の作者、紫式部を主人公にした『光る君へ』。NHK大河ドラマでは、初めて平安中期の貴族社会を舞台に選び、注目されている。第40回「君を置きて」では、一条天皇が体調を崩し、次期皇位を巡って公卿たちが騒がしくなる。そんな中、道長は自身の孫・敦成親王を皇太子にすべく働きかけて……。『偉人名言迷言事典』など紫式部を取り上げた著作もある、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部) 【写真】一条天皇が自分の病状、死期が近いことを知ってしまった清涼殿(京都御所) ■ 『紫式部日記』で明かされた彰子の「地道な努力」 一条天皇の中宮・彰子が、敦成親王(あつひらしんのう)を産んだのは、寛弘5(1008)年9月11日のこと。彰子が数え12歳で入内してから、約9年の月日がたっていた。 彰子の父・藤原道長からすれば、まさに待ち望んだ孫の誕生となったが、彰子はその翌年、寛弘6(1009)年11月25日には、敦良親王(あつながしんのう)を出産している。一条天皇と亡き定子との間には、第1皇子の敦康親王(あつやすしんのう)がすでに産まれていたので、彰子は第2皇子と第3皇子を、立て続けに産んだことになる。 『紫式部日記』では、彰子が紫式部に「漢籍を習いたい」と意欲を見せる場面がつづられている。幼い頃から漢籍を学び博識な一条天皇に、少しでも釣り合うようにと考えたのだろう。そんな彰子の努力もあって、一条天皇も彰子との距離を縮めていったのだろう。 今回の放送では、一条天皇がそんな彰子の知られざる努力に気づく様子が描写された。 一条天皇が寒い冬の日も温かい上着を羽織らないことから、彰子がその理由を問うと、一条天皇は「苦しい思いをしている民の心に少しでも近づくためだ。民の心を鏡とせねば上には立てん」と答えている。多くの説話で「一条天皇は寒い夜にあえて御直垂(おんひれたれ)を脱いだ」とあるので、それが基になっているのだろう。 民思いの姿勢に、彰子が「お上は太宗(たいそう)皇帝と同じ名君であられます」と感心すると、一条天皇は「百錬鏡(ひゃくれんきょう)か」とつぶやいてから、はっとして「中宮は『新楽府(しんがふ)』を読んでおるのか?」と尋ねている。驚く一条天皇に彰子は「まだ途中でございますけれども」と恥ずかしそうに答えている。 どういうことかというと、『新楽府』とは、唐の白居易(はくきょい)らが当時の政治・社会を諷喩(ふうゆ)した詩のこと。「百錬鏡」というのは『新楽府』の中の章の一つで、名君として評判だった唐の太宗皇帝が、常に口にしていた「天子は人民を鏡とする」というモットーについて書かれている。 彰子は『新楽府』を読んでいたがために、一条天皇の言葉が『新楽府』の「百錬鏡」を踏まえたものだと気づいたのだ。 一条天皇はほほ笑んで「中宮がそのように朕を見ていてくれたのは気づかなかった。嬉しく思うぞ」と言い、2人の間に幸せあふれる時間が流れた。彰子の努力が報われた瞬間に、ほっこりした視聴者も多かったことだろう。