『光る君へ』彰子と最愛の人を結んだ「百錬鏡」とは?一条天皇の「辞世の句」を途切れさせたドラマ演出の意味
■ 一条天皇が自分の「ただならぬ病状」に気づいたワケ だが、運命は残酷だ。その直後に一条天皇は胸痛で顔をゆがめる。心配する彰子に「大事ない。いつものことだ」と声をかけるが、このときすでに一条天皇の死期は近づいていた。 一条天皇の体調悪化については、道長も藤原行成も日記に記録している。道長は寛弘8(1011)年5月23日付の『御堂関白記』に「主上、日来、尋常に御座さず。今、頗る重く悩み給もう」と記し、行成は同年5月25日付の『権記』に「容体、能乱の気有り」と記した。 ドラマでは、道長が易で占わせたところ、「崩御の卦が出ております」という結果が出てしまい、それを一条天皇がのぞいており、絶望するシーンが描かれた。 『権記』の記述では、易で天皇の崩御の卦を見ると、道長が清涼殿二間で、権僧正の慶円(けいえん)と共に泣いてしまう。一条天皇はその姿を御几帳の帷(とばり)のほころびから見てしまい、自分の病状のこと、そして道長が譲位に向けて動いていることを知り、より病状が重くなったという。 ドラマとはややプロセスは異なるものの、道長の行動によって一条天皇が死期を悟り、病を重くした可能性は高い。 今回の放送では、一条天皇が譲位を決断したことを聞いて、彰子が「病でお気持ちが弱っておいでの帝を、父上が追いつめたのですね」と道長に迫る場面があった。道長が先走ったことで、一条天皇が弱気になったのは確かなようだ。
■ 感情を押し殺して「一条天皇の説得役」に徹した藤原行成 一条天皇が譲位へと動き出すと、次期天皇は決まっているため、次の皇太子が誰になるかに注目が集まった。道長が自身の孫で、第2皇子である敦成親王を皇太子にするためには、第1皇子である敦康親王を排除しなければならない。 ドラマでは、道長が四納言(源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成)を集めると、察しのよい藤原公任(きんとう)が「今宵、われらが呼ばれたのは、敦成親王様を次の東宮にするという話か」と切り出した。 道長が「そうだ」というと、3人が協力の姿勢を示す中、行成だけはすっきりしない表情で「次の東宮は第1の御子であるべきだと考えますが」と述べ、強引なやり方をしてしまえば、敦成親王にも道長にも危害が及ぶのでは、と慎重な姿勢を見せた。 だが、一条天皇に呼ばれた行成は、自分の考えを曲げている。一条天皇から「病に伏し、譲位も決まり、もはや己のために望むものはない。ただ一つ、敦康を東宮に……。どうかそなたから左大臣に……」と相談されると、行成は意を決した表情で道長の意をくみ、一条天皇の説得にあたっている。 行成は「お上の敦康親王をお慈しみになる御心、誠にごもっとも。この行成、ひたすら感じ入りましてございます」と一条天皇の思いに寄り添いながらも、「されどお考え下さいませ」と語りかけて、前例について話し始めた。 それは、かつて「清和天皇が文徳天皇の第四の皇子でありながら、東宮になった」ということ。その理由は、外戚の藤原良房が朝廷の重臣だったからにほかならない。行成は今の状況もそれと同じだとして、こう断言した。 「左大臣は重臣にして敦成親王の外戚。敦成親王を東宮にするしか道はありません」 一条天皇が「朕は敦康を望んでおる!」と声を荒らげて抵抗しても、行成は「敦康親王様を東宮とすること、左大臣様は承知なさるまいと思われます」と厳しい現状を説明。このやりとりは、行成自身が『権記』に書き記したものとほぼ同じ内容となる。 彰子が中宮になるときにも、行成は同様に一条天皇を説得した。今回も説得役として役割を果たしたことになるが、行成の本意ではなかったことを考えると、道長への忠誠心をより感じさせるシーンとなった。