56年間で延べ880万人「日本一のお写経道場」に託された人々の思い
「般若心経というお経は、文字の数は270文字ほどしかないとても短いお経ですが、幸せを得るためには何をどうすればいいかといった意味が込められています。先輩なら先輩、親なら親。そうした役割が皆さんにはあります。自分に与えられた役割は? 環境を理解しているのか? 般若心経のお写経は、自分自身との対話なんですね」 道場へ入ると、香象(こうぞう)という白い象をかたどった香炉をまたぎ、身を清める。輪袈裟を首にかけ、自ら墨をすり、お手本の上に和紙を重ねて、下から写る文字をなぞる。
筆ペンで書くと、和紙との相性が悪くて文字が消えてしまう可能性があるといい、和紙に関しても、異なる和紙を重ねてしまうと腐食してしまうため、正倉院に残っていた和紙を研究して作られた越前の和紙のみを使用するこだわりようだ。 「お写経をされる方に、『何か心と頭に引っかかったものがありますか?』と尋ねると、皆さん『はい』と答える。 ■引っかかっていたものを忘れられる 私が、『夢中になってなぞっている間のそのときだけは、その引っかかったものは忘れていませんでしたか?』と重ねて問うと、皆さん『あー!』と気が付かれる。お写経をすると、いつしか夢中になっています。夢中になると、忘れることができる。心の問題は、夢中になって忘れることにより一度自分で引きはがしてみないと消化することができません」
ただなぞるだけ。だが、 「お写経は下から写る文字をなぞるため、自分の字は書きません。自分の字を書こうとすると、『上手に書いて褒められたい』という欲望が立ってしまう。そうならないために、ただなぞるだけでいいんです。これもまた、自分との対話になるのです」 誰でも咀嚼できるように布教してきたからこそ、今日の「日本一のお写経のお寺」と呼ばれる薬師寺はある。また、物理的なハードルを下げるために、約270文字の漢字のみで記された般若心経を、平易な言葉で紐解いた簡易版も用意する。