映画とは別物でも同様に恐ろしい 原作小説「関心領域」を読み解いた
メディア特性を生かした描写と演出
虐殺の直接的な描写がないのは、映画も原作も共通する。興味深いのは、両者でその形が異なるにもかかわらず残酷さを伝えるという点で同じ効果をもたらしていることだ。映画では収容所内の映像は出てこないが、壁の向こう側に見え隠れする煙や炎、また銃声、叫び声などの音が嫌でも絶え間なく耳に入ってくることで、ホロコーストの影がある意味で、観客にとっても慣れたものになり、そして日常化してしまう仕掛けとなっている。 一方原作は、トラックで運ばれていく遺体の山など、ビジュアルとして想像してしまう残酷なシーンはあるにはあるが、銃の引き金を引く瞬間や、毒ガス室で苦しむ人々といった「死の決定的瞬間」は文字に起こされていない。しかし先ほどまで話していた人物がページをめくると遺体となって運ばれているような、「決定的瞬間」の時間を飛ばすことで残虐な行為がいともかんたんに行われているという事実が際立っている。 映画は「映像」と「音声」、小説は「文章」のメディアであるという点で表現に違いが出るのは当たり前のことではあるが、ホロコーストを直接的に描かないという大きな特徴を、それぞれのメディア特性を生かして作品に昇華しているのだ。
「視点」は違えど効果は同じ
原作小説から映画になる際に、その形は変わったものの同じ効果をもたらしている重要な要素がもう一つある。それは誰の「視点」かという観点だ。ジョナサン・グレイザー監督は2014年に出版された原作を読む前に、その宣伝文を見かけたことから作品の「視点」に興味を抱いたという。そもそも「関心領域」にひかれたきっかけが「視点」だったのである。 原作には多数いる登場人物が、映画では所長夫妻を中心に絞られたという話は先述の通りだが、重要なのは、監督がゾンダーコマンドの班長シュムルの視点も削ったということ。つまり映画では、唯一のユダヤ人だったシュムルの視点がなくなり、ナチス・ドイツ側のみの視点で語られているのである。ユダヤ人視点がなくなり、むしろなくしたからこそ、見え隠れする断片や音などが観客の想像力を引き出しているのが、映画の大きな特徴と言える。 原作はというと、視点は多いが、恐ろしいのはその全てが並列化されてしまっているという点だ。死と隣り合わせになりながら同胞の遺体を処理しなくてはならないゾンダーコマンドの絶望と、収容所長の妻への嫉妬心、若き将校の自尊心などが、同じ日常の一部として語られる。ルドルフが、死亡者数の計算には頭蓋(ずがい)骨を数えるのかそれとも大腿(だいたい)骨を数えて2で割る方がよいのかを議論しているそばから、妻のひそかな文通相手が誰なのかをあれこれ詮索するという頭の中を、読者はのぞかなくてはならない。