バカほど「イイクニ作ろう鎌倉幕府」を否定する…教科書を「イイハコ作ろう」に書き換えさせた歴史学者の無責任
■「イイクニ作ろう鎌倉幕府」が教科書から消えた 幕府の直訳はCampで、テントのことを指します。今風に訳せば、駐屯地です。移動することが前提です。Base=基地のように移動しないことが前提の存在とは違います。 頼朝は、「東国Base」をつくりたかったのです。このBaseを「国家」と訳しているのが、東国国家論のみなさんです。それはさておき、実際に頼朝がやったのは、本来はCampに過ぎないものをBaseにしていく作業です。 本来はCampに過ぎないので、朝廷から与えられている臨時の司法権と統帥権を、Baseとして日常的に行使できる存在にしてくれ、という作業を、鎌倉を拠点に、平家追討および義経追討を名目として全国に広めていこう、というのが、頼朝が行ったことでした。 さて、最近流行の説。主に東国国家論の先生が「頼朝が征夷大将軍に任命されたなんてどうでもいい」とか唱えています。この方たちは実質が大事で形式はどうでもいいらしいので。だから、「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と一一九二年を鎌倉幕府成立としていたのを、教科書から変えさせました。 この方たち、私のように「形式がすべて。形式こそが最も重要な実質」と考える人を説得する気が無い議論を展開していますが、まあ少し乗ってみましょう。 ■狙いは「朝廷から独立した自治を認めてもらうこと」 頼朝以前の征夷大将軍として有名なのは坂上田村麻呂で、初代は大伴(おおともの)弟麻呂(おとまろ)です。確かに頼朝が田村麻呂らの後継者になりたいなどと熱望した、なんて史料は見たことありません。また、就任後すぐにやめたので「右大将家」と呼ばれたとの史料は山の様にあります。右大将とは右近衛大将の略で、平時の最高武官です。 頼朝がやろうとしたのは、朝廷から独立した自治を認めてもらうこと。その過程で、本来は戦場でのみ臨時にしか認められない司法権と統帥権の委任を、恒久化してもらうことです。そうした実態を伴う朝廷の役職の中から、「征夷大将軍なら間違いない」と選んだのは争いが無いところです。 頼朝が将軍をすぐに辞めたかどうか、重視されなかったかどうかは知りませんが、「一回その役をやっとくと後が便利」は、今でもよくあります。 さて結論。幕府とは、本来は「臨時の本営」です。将軍とは、その最高司令官。政府の指示を待つことなく、現場の裁量で重大な決断、その中でも特に重要な司法権と統帥権を行使できます。要するに、幕府とはGHQ(General Headquarters)、将軍とはSCAP(Supreme Commander for the Allied Powers)です。占領期の日本人は占領軍をGHQ、その最高司令官のダグラス・マッカーサーをSCAPと呼びました。昭和天皇から見たら、マッカーサーなど「頼朝を気取った木曽義仲」くらいにしか見えなかったでしょう。