松本清張小説と映画全盛時代 重要なシーンに登場させた映画館という小道具
今も昔も休日の娯楽の場として賑わいをみせる映画館。庶民の娯楽として根付き、最盛期を迎えたのは1950年代後半だったと言われています。昭和を代表する人気作家・松本清張の小説の中では時折、重要な場面に映画館が登場します。その絶妙な場面で登場する小道具としての映画館は、それぞれの小説の中でどのように描かれていたのでしょうか? ノートルダム清心女子大学教授の綾目広治さんが解説します。
『砂の器』の重要な場面に登場した映画館
本シリーズの初回でも取り上げた『砂の器』は、清張小説と映画との関わり方の特徴が端的に表れている小説である。蒲田殺人事件の被害者である元巡査の三木謙一は、四国や近畿の名所を訪ねた後、伊勢神宮にまで足を伸ばす旅行をしていた。伊勢参りが終われば、郷里の岡山に帰る予定だった。しかし、急遽(きゅうきょ)その予定を変更して上京し、そして惨劇に遭ったのである。 なぜ、急に予定を変更したのか。そこに事件の鍵があると見た今西刑事は、三木謙一が宿泊した旅館に行き、彼が宿泊したときの様子を「女中」に聞く。女中によると、三木は帰郷予定の前日に「退屈だから、映画でも見てくる」と言って女中に教えたもらった映画館に行ったのだが、映画館から帰って彼は当初言っていた翌日の「9時20分の汽車」に乗る帰郷予定を変更して、「都合によって夕方までこの宿にいるかもしれない」と言ったらしい。さらに女中に話から、三木謙一は再度同じ映画館に行ったこともわかる。 今西刑事は当時その映画館で上映されていた映画に上京のヒントがあると思い、映画会社の試写室で劇映画や予告編などをまさに凝視したのだが、何のヒントも得られなかった。しかし今西は、「三木謙一が東京に出た動機をあくまで伊勢市の映画見物に求めている。これ以外に考えようがないのだ」と思う。実は、その動機は映画そのものには関係がなく、関係があったのは三木謙一が入場した頃にその映画館内に掲げられていた写真だった。それは、大きく引き伸ばして額に入れられた、有力政治家の田所重喜(しげよし)の家族写真だった。そこには田所の娘の婚約者の和賀英領も写っていたのである。三木謙一が和賀英領の顔を見知っているのは7歳の頃までであり、写真に写っていたのは30歳の青年の顔であったが、「第一線の巡査は、よく人相の記憶に特異質な人があり」、三木元巡査もそうだったろうと今西刑事は語る。 和賀英領に会うためという、三木健一の上京の動機がわかったことで、事件は一挙に解決に向かって進むのだが、やや詳しく『砂の器』における映画に関わっている箇所をここで紹介したのは、清張小説と映画の関係を考えるとき、ほとんど場合、『砂の器』と同じだからである。すなわち、物語と物語内に出てくる映画の内容とは無関係なのである。それよりも物語と大きく関わるのは、登場人物が映画館に足を運んだことにある。つまり、映画よりも映画館の方が重要な要素となっている。 『砂の器』が読売新聞に発表された時期は、1960(昭和35)年5月から1961(昭和36)年4月までであり、物語の時期設定もほぼこれと同時期と言える。阿奈井文彦は『名画座時代―消えた映画館を』(岩波書店、2006年3月)で、「映画人口が昭和33年に11億2745万2000人と興行史上ピークを記録した。日本人が1年間で12回弱、映画館へ足を運んだ計算になる」と述べている。 三木謙一は「退屈だから、映画でも見てくる」と言って映画館に出かけたのだが、物語の時期である1960年前後はピークは過ぎたものの、まだ映画が庶民の娯楽の王者であったからこそ、三木も気軽に「退屈」しのぎに映画館に行ったのである。