富士山と宗教(18)富士山頂で発見された経塚は平安末期に末代上人が奉納した経典なのか?
村山浅間神社は、かつて興法寺と呼ばれ、富士山における修験道の中心地だったことはこの連載ですでにお伝えした。今日、村山浅間神社の社殿の隣りに興法寺大日堂が建っていることもすでに記したが、村山浅間神社の境内にはもう一つ、高嶺総鎮守と呼ばれる神社がある。祀られているのは富士上人こと末代上人だ。
砂礫採取のため掘削していたら……
昭和5(1930)年8月、富士山頂の三島岳(三島ヶ岳、三島ヶ嶽などとも表記される)東側で富士山本宮浅間大社(当時は浅間神社)の奥宮参籠所建設に必要な砂礫を採取しようと作業員が地面を掘削していたところ、経巻軸や銅器、土器などが見つかったという。 この発見の経緯については、昭和5年10月5日発行の「考古学雑誌」という学術雑誌の中で「富士山頂三島ヶ嶽の経塚」とのタイトルで佐野武勇氏が記事を書いている。ちなみに執筆した佐野氏がどのような人なのか、富士宮市や富士市、浅間大社などに確認したがわからなかった。 佐野氏の記事によれば、発見を受けて精密な発掘が行われ、さらに三つの経筒、多数の経巻と土器などが見つかり、富士山頂の三島岳周辺が経塚であることが明らかになったという。 記事は、発見された経筒や経巻などの状態について詳しく記し、それら発見遺物はすべて大宮(現在の富士山本宮浅間大社)に保管されたとある。そして「頂上三島ヶ嶽は発掘を差し止めて先学の士の研究を待って居る」と締めくくっている。 その後、先学の士による研究が行われたのかどうか、経緯の詳細は不明だが、発見された遺物は今日、浅間大社と東京国立博物館が所蔵しているようである。富士宮市では昨年、東京国立博物館が所蔵する三島岳の発見遺物を確認し、今春発行した「図録 富士宮市の遺跡」(富士宮市教育委員会)の中で写真を付けて紹介している。
鳥羽上皇や上皇の臣下が書写した経も
ところで、静岡県富士山世界遺産センターの大高康正准教授が著した「富士山信仰と修験道」などによると平安時代末期の歴史書「本朝世紀」の1149(久安5)年4月16日条に、末代上人について、富士登山をして山頂に大日寺を構えた「富士上人」として紹介されているということである。 富士山頂の大日寺は、今は浅間大社の奥宮になっている。さらに同年5月13日条には末代上人が富士山に一切経を埋納したと記されているという。一切経とは仏教聖典をすべて集めたもので、末代上人は富士山頂に一切経を奉納することを発願し、人々に書写を働きかけ、また、鳥羽上皇や鳥羽上皇の臣下も書写をして、それらすべてを富士山頂に奉納したというのだ。 末代上人について富士宮市史は「鳥羽上皇にすすめて、大般若経の一部を書写させ、法皇自筆の如法経と共に山体に埋経しようとしたのだった」と記している。大高准教授は「写経には時間も人も能力もかかります。(一切経の奉納は)有力者の協力がないと出来ないことなので、(富士山頂に一切経を奉納した)末代は身分の高い宗教者だったのだと思います」と話す。昭和5年に富士山頂三島岳で発見された経巻や経筒、土器など数々の遺物は、末代上人により奉納された一切経の一部ではないかと言われている。 末代上人は、現在の静岡県に当たる駿河に生まれ、實相寺(静岡県富士市)を開いたとされる智印(ちいん)上人に学び、伊豆の走湯山で修行を積んだ後、富士山で修行をするようになったと言われている。そして、富士山頂に大日寺、山麓に興法寺を建立し、興法寺は富士山における修験道の中心地へと発展していった。末代上人は富士山の守護神となることを目指し、断食をして即身仏となり、興法寺の境内に祀られ、それが今日の高嶺総鎮守になった。