富士山と宗教(18)富士山頂で発見された経塚は平安末期に末代上人が奉納した経典なのか?
かつて使われていた村山口登山道
興法寺、現在の村山浅間神社の一角には「富士山村山口」と刻まれた石碑があり、そこから幹線道路に至るまで山道が整備されている。修験道者たちが切り開いた興法寺から富士山頂に至る道は、村山口登山道として明治時代まで利用されていたということだ。興法寺は富士山頂に大日寺を構え、富士山頂にも大きな権限を有していたと考えられている。 噴火を繰り返す荒ぶる富士山は、古代神道のアニミズム的な宗教世界の中で神として奉られ、遥かかなたから拝む対象だった。国家の形成とともに神道が整備され、さらに仏教が伝来して神道と仏教が混合するなかで修験道者たちが日本各地の山々にて山岳修行を行うようになり、富士山もその対象となった。 中世、戦国武将が割拠すると宗教は武将と結びつき、やがて富士山信仰とも関係が深い徳川家康によって世の中が統一され、江戸に幕府が置かれると、宗教の大衆化とあいまって富士山は江戸庶民の信仰の山となり、富士講が大いに流行した。 富士山は一部の宗教者の山から庶民が登拝する山へと変わっていった。富士山をめぐる宗教は、日本の歴史の大きな流れの中にあるということが言えるのではないかと思う。江戸幕府が終焉し明治時代がはじまると富士山を取り巻く宗教は大きな変化を迎えることになる。