『光る君へ』藤原道長が亡くなった後の平安時代、紫式部、源倫子、藤原彰子、清少納言、藤原隆家、藤原実資のその後
■ 道長の妻たち 道長の死後、残された二人の妻は、どうなったのか。 瀧内公美が演じた源明子の、道長の死後の動静はあまりわかっていない。 だが、道長が亡くなってから20年以上も健在で、永承4年(1049)7月22日に、85歳で亡くなった。 当時としては、かなりの長命である。 道長との間に生まれた6人の子どものうち、4人が存命で、孫も何人も誕生していたので、多くの身内に看取られて、最期の時を迎えたのかもしれない。 『光る君へ』藤原道長のもう一人の妻・源明子の生涯、父は光源氏のモデル? 道長の兄たちも明子に懸想していた? 道長の正妻・黒木華が演じた源倫子は、明子よりもさらに長命で、享年はなんと90歳である。 上東門院の院号を受け女院となった長女・彰子や、渡邊圭祐が演じた長男・関白頼通、姫子松柾が演じた二男・右大臣教通、豊田裕大が演じる養子・権大納言長家(道長と明子の子)に看取られ、天喜元年(1053)6月11日に、長い人生に幕を下ろした(服藤早苗 高松百花編『藤原道長を創った女たち―〈望月の世〉を読み直す』所収 東海林亜矢子「第四章 正妻源倫子 ◎妻として、母として、同志として」/『定家朝臣記』同日条)。 『光る君へ』藤原道長の嫡妻・源倫子はどんな人? 6人の子供を出産、90歳の長寿をまっとうした生涯 ■ 彰子は息子二人に先立たれる 彰子は道長の死後、天皇家と摂関家の実質的な家長として、両家を支え、承保元年(1074)に87歳で亡くなった。 母・倫子と同じく彰子も長命だったが、彰子の息子二人は、後一条天皇が長元9年(1036)に29歳で、後朱雀天皇が寛徳2年(1045)に37歳で、それぞれ没し、彰子は息子二人に先立たれている。
■ 清少納言は零落していない? ファーストサマーウイカが演じた清少納言は、高畑充希が演じた定子の没後、ほどなくして宮仕えを辞め、再婚相手とされる摂津守の藤原棟世の任国に下向した(丸山裕美子『清少納言と紫式部』)とも、定子の遺児である海津雪乃が演じた脩子内親王に仕えたなどとも考えられている(倉本一宏『平安時代の男の日記』)。 道長の日記『御堂関白記』寛仁元年(1017)3月11日条には、清少納言の兄・清原致信が「殺人の上手」源頼親によって殺害されたことが記されているが、この時、清少納言も同居していたとの説話が『古事談』にみられる。 清少納言には晩年、零落した生活を送った、あるいは地方を流浪したなどの没落説話も伝わるが、現在ではほぼ否定されているという(源顕兼 倉本一宏編『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 古事談』)。 藤原棟世との間に生まれた娘が小馬命婦として彰子に仕えるなど、子どもたちが地位を得ており、兄弟も健在であったことから、定子の後宮に仕えていた頃ほどの華やかさはなかったかもしれないが、零落にはあたらないと考えられている(丸山裕美子『清少納言と紫式部』)。 『光る君へ』清少納言はどんな人? 一条天皇の皇后・定子に仕え『枕草子』を執筆した謎多き生涯 ■ 隆家と実資は? 「刀伊の入寇」での活躍で注目を集めた竜星涼が演じた藤原隆家は、長暦元年(1037)、59歳の時、再び大宰権帥に任じられ、長久2年(1041)まで、その任についていた(『国史大系 第53巻 新訂増補』所収『公卿補任』)。 だが、この時は現地に赴任しなかったようだ(倉本一宏『藤原伊周・隆家 ――禍福は糾へる纏のごとし――』。 長男・藤原良頼と二男・藤原経輔が公卿に上っている。 隆家は、37歳で亡くなった三浦翔平が演じた兄の藤原伊周よりも30年近く長命を保ち、寛徳元年(1044)1月1日に、66歳で死去した。 『光る君へ』伊周の弟・藤原隆家の破天荒な生涯、“さがな者”と称され、「刀伊の入寇」で日本を救った戦う貴族 ドラマでも人気が高かった秋山竜次が演じる藤原実資は、道長が存命中の治安元年(1021)、65歳の時に右大臣に上り、以後、永承元年(1046)に90歳で亡くなるまで、その地位にあり、「賢人右府」と称された。 頼通からの信頼も厚く、道長亡き後は、頼通と実資の二人三脚で政務を担ったという(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。 実資の日記『小右記』は、藤原宗忠の『中右記』、藤原定家の『明月記』とともに、三大古記録の一つに数えられている。 『光る君へ』秋山竜次演じる藤原実資の生涯、道長との関係、『小右記』とは?