東急のようなブランド力や一体感が希薄な「西武鉄道」。ちぐはぐな開発が行われた原因は創業者一族の折り合いの悪さにあった?
『沿線格差』という言葉を目にすることも増えましたが、フリーライターの小林拓矢さんいわく、「それぞれの沿線に住む人のライフスタイルの違いは、私鉄各社の経営戦略とも深くかかわっている」のだとか。今回はその小林さんに「西武鉄道沿線の魅力と実情」を紹介していただきました。西武鉄道について語る際には、堤康次郎氏のことを欠かすわけにはいかないそうで――。 【書影】関東8大私鉄の「沿線力」を徹底比較!小林拓矢『関東の私鉄沿線格差: 東急 東武 小田急 京王 西武 京急 京成 相鉄』 * * * * * * * ◆西武鉄道沿線の魅力と実情は? 西武鉄道について語る際には、堤康次郎(つつみやすじろう)のことを欠かすわけにはいかない。 堤康次郎は、もともと鉄道会社の経営をする人というよりも、宅地開発のデベロッパーのようなところがあった。 鉄道技術者でもなく、官僚でもない、しかも早稲田大学在学中から企業経営を行なっていた、叩き上げの経営者である。のちには国会議員にもなり、衆議院議長の要職も務めた。 そもそもが、不動産開発に熱心だった人である。軽井沢の別荘地や、箱根の温泉地、国立(くにたち)の学園都市など、沿線以外のところでもビジネスを営みながら、鉄道事業も行なっていたというのが正確だろう。 堤康次郎のもと、西武鉄道は東急電鉄のようになろうと、さまざまな事業に取り組んでいた。 ホテル事業や百貨店、スーパーなどを手がけ、東急グループと似たようなビジネスモデルを展開しようとしていた。
◆堤康次郎の子どもたち しかし、やっかいな問題があった。堤康次郎には多くの子どもがいた。そして、家庭だけでなく経営者としても家父長(かふちょう)制的な志向の持ち主であった。 堤は三男である義明(よしあき)に、将来の西武グループを担(にな)わせようと帝王教育をほどこしていた。 義明は早稲田大学に進学し、サークル「観光学会」で数々のイベントを成功させ、その仲間たちも西武鉄道に入社していった。 一方、義明には異母兄に清二(せいじ)がいた。清二は東京大学に進み、学内で日本共産党東大細胞に属した。 戦争直後の日本共産党東大細胞には、のちに日本のあらゆる世界で指導的立場になっていく人が多くいた。こうした人たちとともに、清二も社会を変革すべく闘っていた。
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