東急のようなブランド力や一体感が希薄な「西武鉄道」。ちぐはぐな開発が行われた原因は創業者一族の折り合いの悪さにあった?
◆政治的考え方の違い 清二の日本共産党への入党は、家父長制的な企業グループの支配者である父親への反発が大きかったのだろう。しかし、結局は父のもとで働くことに。 その際に清二が入社したのは、西武百貨店である。清二は、入社の条件として社内に労働組合をつくらせることを求め、これは認められた。 この後、堤家の兄弟たちは義明を中心に西武グループを拡大していく。そのなかで義明と清二は考え方の違いもあり、西武グループと西武流通グループに分かれていった。 西武グループは、堤康次郎以来の「土地」を重視する経営方針を貫(つらぬ)き、鉄道事業のかたわら、各地のゴルフ場やリゾート開発を行なっていくが、沿線の宅地開発にはそれほど力を入れていなかった。 西武鉄道沿線には、住宅公団の団地が次々とできていった。その住民が西武鉄道を利用し、いまは別グループとなった西友で買い物をするというライフスタイルが生まれてくる。西友は初期には、西武鉄道沿線をターゲットに店舗網を拡大するが、やがては全国へと事業を広めていく。西武百貨店も池袋だけではなく、渋谷へと進出し、各地に店舗を設けた。 西武グループは鉄道事業と不動産事業、ホテル事業を中心にし、西武流通グループ改めセゾングループは、小売り事業や飲食事業だけではなく、クレジットカード事業に力を入れ、そのかたわらで不動産やホテルも手がける。そのあたりのちぐはぐさが、沿線としての一体感を醸成しにくい状況を引き起こしている。 それでも、西武グループでクレジットカードをつくりたいというときには、セゾンカードから発行するということになっていた。つまり、歴史的経緯から西武沿線にセゾングループのお店があるわけで、資本系列として一括にまとまっているというわけではないのだ。そうした点もあって、一体感のある沿線になっているとはいいにくいのだろう。
◆沿線文化 また、西武グループの歴史や、西武鉄道沿線の地域性をつくるうえで、義明と清二の関係性や、政治的考え方の違いというのが大きく影響していると考えてよい。 清二は日本共産党の国際派・所感派の対立のさなかに国際派に属し、除名されたものの、「辻井喬(つじいたかし)」というペンネームで詩人として活躍。小説も書き、文化人としても知られた。経済人として、さまざまな企業経営者や政治家とも交流した。 その価値観が「無印良品」を生み、セゾンカードを西武百貨店や西友のハウスカードの枠に収まらないカードに育て上げた。もとのセゾングループは崩壊したものの、セゾンの精神は旧セゾン系企業には生き続けている。西武鉄道沿線では、相容れない義明の家父長主義と、清二の左翼的精神が矛盾しつつも生き続けているというのが特性としてあるだろう。 なお堤義明はすでにグループを出、みずほ銀行出身の後藤高志が経営を立て直し、西武グループは現在のような状態にある。 このような経緯で、西武鉄道沿線は、東京の城南地域の私鉄各線のように、ブランド力があり、企業グループ全体で統一したサービスを提供しにくかった。そのため「東京西側」の私鉄のなかにおいて、西武鉄道は東急グループほどのブランド力を備えられなかったと言える。 その一方で、堤義明のようなレジャー中心の文化か、堤清二のような文学や美術・思想を中心としたハイカルチャーか、というものが、西武沿線には存在する。さまざまな人が西武鉄道沿線には住んでおり、沿線自体の多様性が確保され、各沿線の平均的なものとなるような沿線文化が西武にはあるのだろう。裕福な人もそうではない人も、革新的な人も保守的な人もいるのが、西武鉄道沿線である。 ※本稿は、『関東の私鉄沿線格差: 東急 東武 小田急 京王 西武 京急 京成 相鉄』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
小林拓矢
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