「私のやり方が悪かったと事件を矮小化しないでほしい」 “サムライ大使”と呼ばれながら激しいバッシングを受けた「青木盛久氏」が明かした本心
妻は「青木らしい出来事」
「(68年に)結婚した時、この仕事はぬかみそ臭いもんだ、と言われました。青木は役人らしくなかった。根は明るく、放言癖もありました。外交は友好的ではない相手ともいかに関係を築くかが肝要で、常に人が相手だと申しておりました。テロリストと対立せず、彼らと人質との交流さえ生まれた。青木らしい出来事と思います」(直子さん) 98年、ケニア大使に。 「ペルー大使の前、(90年に)青年海外協力隊に携わり、青木は夢中になった。日本の若者が任地で工夫して成長する大切な場だと捉え、隊員の皆さんに会い、報告書も隅々まで読んでいました。ケニアでも協力隊の現場に出かけました」(直子さん)
退官後も青年海外協力隊を支援
2001年に退官。「協力隊を育てる会」で青年海外協力隊の支援を続けた。 「ペルー事件のことは取材されれば話していましたが、自分の中では済んだことと受け止めているようでした。若い頃、新聞記者を志したせいか、記者と話すのは好きでした」(直子さん) 約2年前、骨髄異形成症候群と判明。今夏から時折意識が遠のく。 「フジモリ元大統領が9月に亡くなったことも分かっていません」(直子さん) 11月9日、85歳で逝去。 「青年海外協力隊のOBの皆さんからのお招きで講演に出かけるのは難しくなっても、自宅を訪ねて下さる方々との会話を楽しんでいました。皆さんに支えられ、やりたいことができて幸せだったと申しておりました」(直子さん)
「週刊新潮」2024年11月28日号 掲載
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