ウクライナ避難民の証言集、言葉の意味をも変える異常事態―オスタップ・スリヴィンスキー『戦争語彙集』沼野 充義による書評
◆言葉の意味をも変える異常事態 二〇二二年二月にロシアによる侵略戦争が始まると、無数の人々がウクライナ各地から戦火を逃れ命からがら西部の街リヴィウに押し寄せてきた。詩人スリヴィンスキー(一九七八年生まれ)はそういった避難民を助けるためのボランティア活動に従事しながら、彼らの証言を記録し、それを辞典のように配列した。難しい軍事用語はない。「バス」「スモモの木」「おばあちゃん」から「しっぽ」「数」「林檎」に至るまで、平易な日常用語ばかりだ。本書の前半にはそういった言葉が七十七語収録されている。各項目は短く、まるで散文詩のように読める。 チェルニヒウ在住のマリアという女性はこう証言する。「最近血を見ることが多い。怖いというのではなく、ただ目に入るのです。以前からこんなにまわりに血があったのかな、と思います。占領された地域の地図を見るにつけてもそうで、バラのような赤い色に塗られているんですよ。まるで地図の縁(へり)から血が滲み出ているように見えて」(「血」) リヴィウ在住のウリャーナは、避難シェルターに変わった人形劇場での子どもたちとペットの動物の様子をこう伝える。「二日間、彼らは朝から晩までマットレスの上でシーンと静まって横たわっていました。これほど多くの沈黙する子どもたちと動物が一つの場所にいるところを、わたしは見たことがありません。(中略)怖かったですよ」(「沈黙」) 証言者の一人で、ブチャに住む詩人オレーナによれば、この『語彙集』は「その時点での最も新鮮で正確な経験を伝えるものであり、このような経験をした多くの人々の感情のスナップショット」なのだという。そして、戦争のさなかに発せられた言葉は剥き出しになり、普通の言葉が普段と異なった力を持って迫ってくる。実際、「キノコ」はミサイルの落ちた場所で空に昇る黒いキノコ雲に変貌し、本を積み上げるためにあった倉庫は「人の遺体を積み上げる倉庫」に変わるのだ。スリヴィンスキーが「序」で言うように、「戦争は、当事者の人生を激しく様変わりさせるのみならず、新たな説明が必要なほど言葉の意味をも変えてしまう」のだ。 この『戦争語彙集』をまず英訳で読んで強い感銘を受けた日本文学研究者のロバート・キャンベルは、それを自ら日本語に訳そうと思い立っただけでなく、危険をかえりみず戦時下のウクライナに赴き、スリヴィンスキーや証言者たちに会って、「彼らが経験したことの一端を直接に聞いて」こようと決断する。「翻訳する以上は、緊迫したケアの現場でつぶやかれた証言という小さな言葉の喚起力を自分でも追体験したいと考え」たからだという。こうして、本書の後半百五十ページほどは、「戦争のなかの言葉への旅」と題された、キャンベル氏によるユニークな紀行文となった。 二〇二三年六月に二週間あまり、同氏はリヴィウやキーウを訪れ、証言者たちと会って話し、戦時下の人々の生活の息遣いを感じ取ってきた。そして、異常事態でも人々をつなぐ「きずな」を支えるのは言葉であり、言葉が「もう一つのシェルター」になっているというのが、繊細な観察眼に裏打ちされたこの紀行の結論である。それは本書から立ち上る、一筋の希望の光のようだ。 [書き手] 沼野 充義 1954年東京生まれ。東京大学卒、ハーバード大学スラヴ語学文学科に学ぶ。2020年7月現在、名古屋外国語大副学長。2002年、『徹夜の塊 亡命文学論』(作品社)でサントリー学芸賞、2004年、『ユートピア文学論』(作品社)で読売文学賞評論・伝記賞を受賞。著書に『屋根の上のバイリンガル』(白水社)、『ユートピアへの手紙』(河出書房新社)、訳書に『賜物』(河出書房新社)、『ナボコフ全短篇』(共訳、作品社)、スタニスワフ・レム『ソラリス』(国書刊行会)、シンボルスカ『終わりと始まり』(未知谷)など。 [書籍情報]『戦争語彙集』 著者:オスタップ・スリヴィンスキー / 翻訳:ロバート キャンベル / 出版社:岩波書店 / 発売日:2023年12月26日 / ISBN:4000616161 毎日新聞 2024年1月20日掲載
沼野 充義
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