自分ではどうにもできない…逆境に立たされた渋沢栄一が考えた「唯一の策」とは?
稀代の企業家にして、社会事業家。新一万円札に肖像が採用された渋沢栄一は、日本近代資本主義の父とも呼ばれる。大正5(1916)年に刊行された講演録『論語と算盤』は、金儲けは卑しいものとされ道徳とは相容れないと考えられていた時代に、論語を基にした道徳とビジネスを調和させることで社会をよりよくできることを示して、社会に大きな影響を与えた。本連載では、『詳解全訳 論語と算盤』(渋沢栄一著、守屋淳訳・注解/筑摩書房)から、内容の一部を抜粋・再編集。今や大谷翔平選手の愛読書としても知られる本書を、分かりやすい現代語訳と詳細な注釈を通じて読み解く。 第3回では、明治維新など日本で起きた大きな変化や困難を経験した渋沢栄一が、その時にどう対処したかについて語る。 ■ 立派な人間が、真価を試される機会 真の逆境とはどのような場合を言うのか、実例をあげて一通りの説明を試みたいと思う。 およそ世の中は、順調なまま平穏無事にゆくはずの事柄でも、水に波が立ったり、空中に風が起こるような変化に見舞われることがある。同じように、平静な国家社会ですらも、時としては革命や変乱とかいうことが起こらないとも言いきれない。 これは、平穏無事な時期と比べるなら、明らかに正反対の状況だ。このような変乱の時代に生まれ合わせ、心ならずもその渦中に巻き込まれるのが不幸な者であり、真の逆境に立つというのではあるまいか。 そうだとすれば、わたしもまた逆境のなかで生きてきた一人である。 わたしは明治維新の前後、世の中が最も騒々しかった時代に生まれ合わせ、さまざまな変化に遭遇して今日に及んだ。振りかえってみると、明治維新のときのような世の中の変化にさいしては、どんなに知恵や能力がある者でも、また努力家であっても、思ってもみない逆境に立たされたり、あるいは順境から逃げられてしまう、ということが起こってくる。 現にわたしは、最初は尊王討幕〔そんのうとうばく〕(天皇を奉じて徳川幕府を討つ)や攘夷鎖港〔じょういさこう〕(外国を打ち払い鎖国する)を論じて、東西を走り回っていた。しかし、後には一橋家の家来となって幕府の臣下に加わり、その後に民部公子〔みんぶこうし〕・徳川昭武〔とくがわあきたけ〕(49) に随行してフランスに渡航したのである。ところが日本に帰ってみれば幕府はすでに亡びて、世は王政に変わっていた。 この間の変化にさいして、もしかしたら自分には知恵や能力の足りないこともあったかもしれない。しかし努力の点については、自己の力一杯にやったつもりで不足はなかったと思う。それなのに、社会の移り変わりや政治体制の刷新に直面すると、これをどうすることもできず、わたしは何とも逆境の人となってしまったのである。 その頃、逆境にいてひどく困難な思いをしたことは、今でもなお記憶している。当時、困難な思いをした者はわたし一人ではなく、かなりの人材の中にも、わたしと同じ境遇を味わった者はたくさんいたに違いない。大きな変化にさいして、これは最終的に免れがたい結果であろう。 こんな大きな波瀾は少ないとしても、時代の推移につれて、常に人生には小波瀾のあることはやむを得ない。だから、その渦中に投じられて、逆境に立たされる人も常にいるのであろうから、「世の中に逆境は絶対にない」と言い切ることはできないのである。 ただ、人が順境と逆境について考える場合は、ぜひともその生じる原因を探り、それが「人の作った逆境」であるのか、それとも「人にはどうしようもない逆境」であるのかを区別すべきである。その後、どう対処するのかの策を立てなければならない。 (49) 1853~1910 徳川慶喜の弟。渡仏のときは13歳だった。民部大輔〔みんぶのたいふ〕という役職にあったので民部公子と呼ばれた。