多くの人が気付いていない、「犯罪者」と「私たち」を隔てる壁は「意外と薄い」という事実…紙一重の違いで、自分が刑務所に入っていた可能性も!?
日本における犯罪者処遇のあり方
この章でここまでに論じてきた事柄、つまり、犯罪は社会構造との関連で決まること、犯罪の社会学的なとらえ方、刑事責任の根拠とされる自由意思は自然科学的にみれば虚構としての性格が大きいこと、犯罪者の多数と私たちを隔てる壁は本当は薄いこと、欧米では修復的司法の思想が広まりつつあることなどを考慮すれば、日本においても、刑罰を含めた犯罪者処遇のあり方については、今後、抜本的な改革が必要とされるのではないだろうか。 まず、犯罪者の処遇については、全般的に、応報よりも犯罪者の更生、再社会化に重点を置くべきである。現在の刑務所・少年院制度では、実をいえば、被収容者の再犯率は、刑務所はもちろん、少年院についても、収容の結果として下がっているとは必ずしもいえないのだ。たとえば、アメリカでは、犯罪少年の家庭環境のよしあしが施設収容の決定に大きく影響する。その結果、黒人少年の施設収容率は、白人少年のそれよりも顕著に高くなる。しかし、特に黒人少年の場合、施設収容の結果、かえって犯罪的集団とのかかわりが固定化し、不良者とのレッテルが貼られ、その結果、再犯率も高くなっている。 量刑については、日本では裁判官と裁判員(裁判員が裁判に参加するのは一部の重大事件)が決めているが、これについては、アメリカ等の例にならい、犯罪者の社会復帰の可能性にも目配りした専門家、調査官の意見を参考にしながら、裁判官が、量刑とその後の処遇の方針についてきめの細かい決定を行う方法がベターであろう。また、実刑判決については、見せしめ的でほかの事案と対比して不公平なものは、避けるべきである。なお、日本でも、少年審判では、家庭裁判所調査官が関与し、その意見が重視される。 具体的な刑罰ないし処遇についても、実刑とその執行猶予に限るのではなく、たとえば地方自治体、医療施設等々における「相当期間の社会奉仕活動の制度」は採り入れてよいと思う。政治家や企業経営陣の犯罪、重大な交通事故加害者等の場合を含め、実刑まではともかく、単なる執行猶予ではなく、社会奉仕活動に打ち込ませることで罪を償わせかつ自己の責任を自覚させるとともに再犯防止を図るのが望ましい場合は、かなり多いからだ。たとえば週のうち一部の日に通常の勤務と並行するかたちでこれを実施するようなことも可能だろう。 福島第一原発事故に関する東京電力の旧経営陣三名の無罪判決(2019年地裁、2023年高裁)については、私は、有罪とすれば執行猶予が付けにくいこともあずかっての「政治的判断」ではないかとの印象をもっているが、たとえばこの種の事案については、まさに、「長期間の社会奉仕活動」という形態の刑罰ないし処遇が適しているのではないだろうか(なお、控えめにみても同事故が「想定外」のものとはいえなかったことについては、この問題に取り組んできた科学ジャーナリストが過去の裁判記録、事故調査報告書を始めとする膨大な資料に基づき全体像をまとめた分析、添田孝史『東電原発事故10年で明らかになったこと』〔平凡社新書〕参照。特に、「東北電力や日本原電〈日本原子力発電株式会社〉は東京電力と異なり津波を想定し、日本原電は現状では津波に対応できないとの認識の下に対策を進めていた事実が近時明らかになった」旨の記述には注目すべきである)。 行刑の具体的執行方法にも、工夫や改善の余地は大きい。 日本における身体拘束刑の執行のあり方についてみると、ガンマニアが高じた拳銃の不法所持等により初犯であるにもかかわらず懲役三年の実刑判決(「見せしめ」の要素が強い判断のように思われる)を受けた漫画家花輪和一の作品『刑務所の中』〔講談社漫画文庫〕に詳細に描かれているとおりである。鉄の規律により徹底的に厳しく自由を制限するものであり、また、こうした方法は、その後も基本的には変化していないようだ。また、少年院でも、自由の制限は相当に厳しい。 しかし、そこまで被収容者の自由を制限する必要性、意味が本当にあるのかは疑問であろう。たとえば、1982年に私が見学したアメリカの少年院は、どうみてもその内部は寄宿制の学校にしか見えず、少年たちの自由時間も長く、場合により刑務所に準じるような厳しい規律で少年たちを処遇する日本のそれとは全く別物の施設、処遇であった。少年院についてみれば、40年以上前のアメリカでさえ、すでにそうだったのである。日本の場合、処遇のあり方は非常に厳格だが、そうした処遇によって被収容者がどれだけ改善、更生しているのかには、いささか疑問も感じる。 ノルウェーでは、刑罰とその実施につき抜本的な改革が図られた。個室は簡素なビジネスホテル並み、家族との面会も自由、そして、午前は作業や勉強にゆき、午後は自由時間となる。個室に外から鍵がかけられるのは夜間のみである。なお、ノルウェーには、死刑はもちろん、終身刑もなく、刑期も相対的に短く、最長で禁錮21年である。 こうした処遇は、刑務所収容の目的を徹底して受刑者の更生と社会復帰に絞ろうという考え方による。「刑務所と外の生活の差が小さいほど、服役生活から外の世界への移行が容易になる。刑務官の仕事は、よき隣人を育てて釈放することだ」という思想による。 注目すべきは、こうした破格の方法により、かつてあった受刑者の逃亡や刑務官殺害等の事件がなくなったのみならず、60ないし70パーセントだった再犯率が20パーセント前後まで劇的に減少し、北欧諸国の中でも最低水準になっていることだ(下関市「人権アラカルト」四七号等)。 ノルウェーでは、被害者支援も非常に手厚く、多額の補償金や弁護士の支援が受けられる。このことと、ヨーロッパ全体における死刑廃止の動向もあってか、ノルウェーでは、殺人被害者の遺族の間にも、「加害者を憎む心は消えないが、その死までは望まない。いつの日か、自分のしたことの意味をよく理解してほしい」、「たとえ苛酷な処遇をしても、それで受刑者がより悪くなるのでは意味がない」といった声があるという。 ノルウェーの刑事司法は、全体として、修復的司法の思想に沿った方向のものといえよう。 刑罰を科することの目的には応報と教育があるが、犯罪者処遇の実際では、前記のとおり、応報が主な目的になっていることが多い。日本は、その傾向が非常に強い。けれども、その結果として、先にも述べたように、刑務所や少年院の経験が、被収容者を改善しないばかりかむしろ悪い影響を及ぼすことのほうが多くなっているというのが、大半の国における法律家の共通認識ではないかと思う。私も、近年のノルウェーの例を知るまでは、刑務所による受刑者の教育改善は実際上難しく、むしろ実刑を少なくして前記のような社会奉仕活動を充実すべきだと考えていた。しかし、ノルウェーが「北風と太陽」の寓話のような発想の転換で受刑者の再犯率を劇的に下げてしまった実績をみて、固定観念に縛られない発想がいかに大切かを思い知らされた。 「国民性」や「法意識」の違いもあるので、ノルウェーのようなやり方がどの国でもすぐに実現できるものではなかろう。特に、悪質かつ残虐な犯罪についてまで最初からこうした処遇でよいのかという疑問は、私自身、感じないではない。しかしながら、再犯率を劇的に下げたノルウェーシステムが、教育刑の趣旨、目的を非常に洗練された方法で実現したことは否定できない。 比較してみると、日本における行刑のあり方、また、被害者支援のあり方には、少なくとも一定の改善が試みられつつあるとはいえ、まだまだ、きわめて大きな改善の余地があるといえよう。特に、刑務所における処遇については、前記のとおり厳しい規則一辺倒で、規則の内容についてもその合理性に乏しいものがかなりあり、規則違反の罰についても、長期間の懲罰独房収容、その間は正座していなければならないなどといった例もあるといわれる。しかし、前記のとおり、そのようなやり方が、受刑者の罪の自覚と内省、また、更生、社会復帰のために本当に役立っているのかは、相当に疑わしい。 なお、日本でも、2022年に、懲役・禁錮を廃止し「拘禁刑」として単一化するとともに、拘禁刑及び拘留に処せられた者につき、改善更生を図るため、必要な作業を行わせ、または必要な指導を行うことができるものとするなどの刑法等の改正(2025年施行)がなされ、受刑者の円滑な社会復帰を図るため、その意向を尊重しつつ、住居、医療・療養、就業・就学など必要な援助を行う旨の規定も設けられた。「懲らしめ」のための罰としての「懲役」を廃止し、受刑者の改善更生、社会復帰を志向する改正である。この改正が犯罪者処遇のあり方について改善の最初の一歩を踏み出したものとなることを期待したい。 * さらに【つづき】〈日本人の死刑に関する考え方は、先進諸国の中では「特異なもの」だという「意外な事実」〉では、死刑は正当化されうるのか、考えていきます。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)