多くの人が気付いていない、「犯罪者」と「私たち」を隔てる壁は「意外と薄い」という事実…紙一重の違いで、自分が刑務所に入っていた可能性も!?
応報的司法と修復的司法
近年、欧米を中心に、修復的司法(Restorative justice)という考え方が強くなってきている。これは、刑事司法を、犯罪に関係する当事者、すなわち被害者と加害者が、コミュニティーの支援をも得ながら被害の回復と実質的な贖罪を実現してゆく過程としてとらえる。また、犯罪によって生じた被害をそのような方法で回復することにより、過去ではなく将来志向の正義の実現を図ろうともする。従来の応報的司法(Retributive justice)の対立概念として提起された考え方である。 それは、被害者の権利とニーズの実現を中心とするが、同時に、加害者の再社会化をも図り、犯罪によってコミュニティーが被った傷をも修復することをめざす。それは、被害者の実質的利益を保護しようとするが、被害者の応報感情を保護するものではない。被害者の応報感情を基盤とする被害者保護は、かえって社会を破壊しかねないと説く。 以上のとおり、修復的司法は、被害者の問題を、コミュニティー、社会、公共の問題として、広い視野からとらえる。そこにおいては、加害者が非難されるのではなく、その行為が非難される。この点では、東洋的な「罪を憎んで人を憎まず(孔子の言葉と伝えられている)」の精神に近い考え方ともいえよう。また、加害者には、悔悟や赦しの可能性が与えられる。 修復的司法の考え方、思想自体については、国や地域によってかなりの相違があるが、具体的な取り組みの方法とその目的の共通項は、大筋以下のようなものである。 (1)被害者の被害を、金銭的にも、精神面でも、可能な限り回復しようとし、損害賠償を促進する。また、加害者に適切な社会奉仕活動等を行わせる。(2)被害者ないしはその家族と加害者各自の自発的な意思があれば、仲介者を交えた出合いの場を作り、相互の対話により、被害者が負った精神的な傷の回復を図るとともに、加害者の自覚と悔悟をも促す。右の仲介者としては、権力的機構の人間ではなく、コミュニティーの利益を代表できるような訓練を受けたスタッフが当たる。(3)上のような取り組みの目的は、一次的には被害者の癒やしである。しかし、二次的には、コミュニティーの癒やしや加害者の更生をも図る。 応報的司法においては、往々にして、被害者は無視され、加害者は受動的に罰されるだけだった。しかし、修復的司法においては、問題の解決のために、双方に、手続における主体的な役割が与えられる。被害者はその権利・ニーズが認められ、加害者には責任の受容と広義の贖罪が求められるのである(以上については、高橋則夫『修復的司法の探求』〔成文堂〕等の記述を参考にさせていただいた)。 いかにも理想論のように聞こえるかもしれない。しかし、修復的司法は、ヨーロッパ大陸でも英米系諸国でも実践され、多くのプログラムが成果を上げており、後記のようなノルウェーにおける行刑政策も、修復的司法の一環として行われることで成功したといえる。ノルウェーの再犯率が劇的に下がったことについては、修復的司法のいう加害者の罪の自覚と悔悟、贖罪の効果が大きいと思われるのだ。次にふれる書物の中の加害者らの言葉からも明らかなとおり、常習的な加害者やよくない環境で育った加害者にとっては、「罪の自覚」自体が非常に難しいことが多いのである。そして、罪の自覚に乏しければ再犯は起こりやすい。 なお、日本にも刑事訴訟への被害者参加制度自体は存在する。具体的には、被害者やその遺族は、裁判所の許可を得て刑事訴訟に参加し、被告人の情状について証言する証人や被告人について一定の範囲の尋問や質問ができ、認定されるべき事実や法律の適用について意見を述べることができる。被害者参加人については、旅費・宿泊費等の給付や国選弁護の制度もある。 しかし、日本における被害者参加制度については、必ずしも被害者のためになっていないとの評価もある。その理由としては、本来修復的司法の一環として行われるのが適切といえるそうした制度が、むしろ被害者の応報感情をかきたてるようなかたちで理解、運営されてしまう傾向のあることが指摘されている。 修復的司法については、「西鉄バスジャック事件(十七歳の少年によるバス乗っ取り事件)」の被害者で、少年に切り付けられて重傷を負った山口由美子さんの言葉が参考になる(加害と被害の問題につき若者たちと犯罪加害者、被害者との対話を通じて考察した書物『根っからの悪人っているの?──被害と加害のあいだ』〔坂上香著。創元社〕に収録されている)。 山口さんは、みずから希望して、少年院で加害少年と面会した。院長は、自分の首をかけてこの面会を実現させた。彼女は、少年の謝罪に対し、「これまでつらかったね。大変だったね」、「つらかっただろうけど、あなたを許したわけじゃない」、「やったことはやったこととして悪いから、許してない。ただ、これからの生き方を見てるからね」との言葉を返す。これらの言葉は、首をかけてこの面会を実現させた院長の姿勢とともに、修復的司法の精神のエッセンスを示すものといえよう。 分断と怒りと憎しみが人々の間に広がっており、人口に占める投獄者の割合がロシアや中国より高いアメリカ(2024年において人口一万あたり53.1人だが、これでも従来よりはかなり低くなっているのである)においてすら、修復的司法の精神は、少しずつ浸透しつつある。それなのに、仏教的精神のよき伝統であった「赦しの思想」がかつては人々の間に根付いていた日本で、いつまでも、典型的な「応報的司法」だけが行われている事態は、はたして適切だろうか。それは、結局は、被害者全体のためにも、社会のためにも、ならないことなのではないだろうか。 読者の方々には、そのことを考えていただければ幸いである。