25歳で安藤サクラと結婚、親子でピンク映画を鑑賞→母から言われたことは…柄本佑(38)と家族の“特殊な関係性”〈『光る君へ』最終回〉
親子で一緒にピンク映画を鑑賞したことも
家ではいつも両親が子供そっちのけで映画の話をしていたので、柄本も会話に入りたい一心で映画を見るようになったらしい。とくに父は口下手なので、映画を介してでないと会話が成立しなかった。柄本が18歳になり、成人映画が観られるようになった頃には、知り合いの監督からもらったピンク映画の名作のDVDを、父を誘って家で一緒にゲラゲラ笑ったりしながら観たこともあったという。その様子を帰宅した母に見られてしまい、「誘うあんたもあんただし、一緒に楽しんでるおまえ(父)もおまえだ」とさすがに怒られたとか(『CREA』2020年7月号)。
役者デビューのきっかけは…
すでに小学3年か4年のときには、三隅研次監督の『座頭市物語』を観て、こんなかっこいい勝新太郎(主人公の座頭市役)を撮る映画監督って、きっともっとかっこいいんだろうなと思い、映画監督に憧れるようになっていたという。小学校の卒業文集にも将来の夢にそう書き、いま一番面白いものとしてフェデリコ・フェリーニ監督の『道』を挙げたというから早熟である。俳優デビューとなった映画『美しい夏キリシマ』(2003年)のオーディションでも『道』について話をしたところ、監督の黒木和雄に「親に吹き込まれて、大人びたことを言ってるのでは」と疑われたらしい。 ちなみにこのオーディションは、母親のマネージャーが持ってきた話だったが、本人の知らないうちに一次審査を通っており、面接を受ける段になってようやく両親から受けてみないかと切り出されたという。このとき、母の「行ったところでどうせ落ちるんだろうけど、あんた映画好きでしょ? オーディションに行ったら、生で監督に会えるよ」という一言が殺し文句となった。 母の予想に反してオーディションに合格し、生まれて初めて親元を離れ、地方の山奥でのロケに参加した。しかし、ホームシックになってしまい、自宅に毎晩泣きながら電話をするうち、東京乾電池の劇団員がひとり付き添いに来てくれてどうにか乗り切れたという。 それでも、大人だらけの現場に2ヵ月間も放り込まれ、自分も大人の一員になったという感覚が芽生えたらしい。撮影を終えて学校に戻ると、同級生がみんな子供に見えてしまい、映画の現場に一刻も早く戻りたいという気持ちが募る。そこで高校在学中、考えを巡らせ、《まず、監督はそうそうなれるもんじゃない、撮影、照明、録音は、技術を勉強しなきゃいけない。すぐやれるのはからだひとつで、もう既にやった役者で、それでもっとやりたいということを親父に相談しました》という(『キネマ旬報』2023年1月上・下旬号)。 高校卒業後は映画やドラマに出演しながら、早稲田大学芸術学校で演劇を学んだ。卒業を目前にして、いよいよ自分には「役者」という肩書しかなくなると戸惑いを覚える。父からは「役者は依頼がなければただの無職」とかねがね言われていただけに、焦りがあったようだ。それを乗り越えようと、ある挑戦を始める。