踊り場に立つバングラデシュ:ハシナ政権崩壊とユヌス暫定政権の誕生
村山 真弓
経済発展が順調に進み、後発開発途上国(LDC)からの“卒業”が見えていた南アジアのバングラデシュで政変が起きた。ハシナ政権崩壊の背景を分析し、日本との外交関係の今後について考察する。
ことし8月5日、バングラデシュでは連続15年、通算で20年間首相の座にあったシェイク・ハシナ首相が辞任、隣国インドへの国外逃亡を余儀なくされた。女性宰相としては世界最長の在任期間を誇り、世界の最貧国の一つであったバングラデシュを新興国の一員に押し上げた一方で、野党弾圧、言論統制、人権侵害など強権をふるった同政権の最後は、1カ月ほどの短期間に起った瓦解だった。本稿では、政権崩壊の過程を振り返った後、その後誕生した暫定政権の課題について述べ、日本とバングラデシュ関係の今後についても考察する。
力による鎮静化が政権崩壊の引き金に
政権崩壊の直接の契機は、1971年のバングラデシュ独立戦争に参戦した兵士(フリーダム・ファイター:FF)とその子孫を優遇する公務員採用枠(クオータ)撤廃を求める学生らの運動だった。同制度は独立翌年の72年に導入されたものである。ハシナ首相の父、シェイク・ムジブル・ラフマン(ムジブ)初代首相とその政党アワミ連盟(AL)にとって、正規の軍人だけでなく一般市民も含めたFFの貢献に報いることは、党の存在意義並びに支持基盤の確保のために重要だった。 75年に軍のクーデターでムジブが暗殺された後、90年までは軍政が続いたが、民主化運動で当時のエルシャド政権が倒れたのち、96年にハシナ首相率いるALが政権に復帰すると、FFの子供、2009年からの第2次ハシナ内閣期には孫までもがクオータの対象に含まれた。その割合は公務員採用全体の30%に達し(他にも後進県、女性、マイノリティ、障害者枠があり全体では56%)、学歴向上が進む一方で就業機会が限られるバングラデシュにおいて、特定集団だけを利する差別的制度であるとの批判が高まっていた。18年、クオータ見直しを求める学生たちによる運動が激しさを増し、その圧力に屈する形で、上級公務員に限っては全クオータの撤廃が決まった。 ところが24年6月、FFの子孫である原告からの訴えに対して、高等裁判所が上級公務員のクオータ撤廃を違憲とする(ただしクオータの割合については見直し可とした)判決を出したことから運動が再燃した。政府はその4日後には高裁判決に対して最高裁に上告しており、ハシナ政権がクオータの完全復活に固執していたとは思われないが、問題解決はあくまで司法に委ねるとした。それに対して学生たちは、18年と同様に政府による決定を求めた。7月以降、運動は、首都のダッカ大学から、全国の国立大学、私立大学へさらに中高校生へと拡大していった。 ハシナ政権の過ちは、運動拡大の背後に野党勢力の存在があり、その真の狙いは政権打倒にあると断じ、治安当局やALの学生・若者組織を投じて力による沈静化を図ったことである。それによって、当初の平和的な抗議運動は暴力の連鎖に転化し、独立後の政治的混乱の結果としては史上最悪となる600人以上(運動側が9月末に発表した数字では1581人)の死者を出す事態となった。ハシナ首相が学生たちとの対話に応ずる構えを見せた時には、既に運動側の要求は首相の辞任に転換していた。 全面対決直前で介入したのは軍のトップである。かつてはジアウル・ラフマン(ジア)、エルシャドと二代の陸軍参謀長出身政治家を出した軍は、歴代の政党政権と良好な関係を築いて軍の権益を守るとともに、有能な専門家集団として国民からの信用を確保した存在となっていた。ワカル・ウズ・ジャマン陸軍参謀長は、軍が武力による鎮圧指令に従わないことをハシナ首相に伝え、辞任と国外退去を促した。余りにも多い死者を出したハシナ政権擁護は、軍の利益を損なうとの判断があったためと見られる。