【書評】後醍醐天皇、足利尊氏と戦った北朝初代の光厳天皇:荒山徹著『風と雅の帝』
当たった大乱の予言
自分は無意味な存在かと苦しむ光厳を奮起させたのは、愛する女官との間に男児(後の崇光天皇)が生まれたこと、そして日々続けている筋力訓練、さらに誡太子書だった。 天皇家の嫡男として生まれた光厳は、7歳から父の弟で「学問帝」と呼ばれた花園天皇(すでに上皇)から帝王教育を受けていた。「天皇とは、最高の徳を備えた存在でなくてはならない」と。元服して間もない18歳の皇太子(光厳)に、花園天皇が自書の誡太子書を授けた。 「国に功もなく、民に恵もない。皇子に生まれただけで天皇になるというのは、厳しく戒められるべきことだ」「おまえが即位する時こそは未曾有の大乱が起きる」「皇統の継承は、おまえの徳にかかっている」 誡太子書の予言が当たったのは先述の通りだが、まだ序幕にすぎない。「建武の新政」を始めた後醍醐天皇が足利尊氏によって都を追い出され、吉野に逃れた。上皇となった光厳は弟(光明天皇=北朝2代)、次いで我が子(崇光天皇=同3代)を天皇にして院政を敷く。完全に分断された両統が別々に天皇を出し、二つの朝廷が存在する「南北朝時代」となり、戦乱の世となってしまった。 光厳は「歌の力によってこの乱れた世の中に真の平和をもたらそう」と、勅撰の「風雅(ふうが)和歌集」を自ら編纂した。本書名はこれに由来する。このころは徳政と評価される期間もあったという。 だが、足利幕府に内紛があり、今度は尊氏が南朝と手を結んだ。崇光天皇は廃位され、北朝天皇3代がそろって南朝があった山奥の粗末な家に幽閉されてしまう。二度目の地獄だ。光厳は後醍醐の後継者である後村上天皇(南朝2代)との対面を求めたが会えない。 光厳はある目的を秘めて出家した。5年の幽囚生活を終えて禅僧となった光厳は、ついに後村上天皇と対面する。天皇としては会えなかったが、僧との対面なら許されたのだ。しかし、光厳が誡太子書について語る機会はなかった。 意外にも後村上天皇が見送りをしてくれた。そして、二人だけになった瞬間をとらえて後村上天皇が質問してくる。「天皇とは、何でありましょうや」。実は光厳も皇太子時代に、天皇だった後醍醐に同じ質問をしていた。 南朝の天皇も本当は北朝の光厳と話したかったが、側近たちが許さなかったことを光厳は察する。後村上天皇が臣下に逆らってまで直接話しかけてきたのは、「恩讐を超え、同じ皇族としての血のなせるわざであったに違いない。(わたしたちは)高祖父を同じくする血族なのだ」。