「ふてほど=不適切報道」に見たテレビ報道の凋落 ニュートラルに立ち位置を変えるべきでは?
斎藤氏を取り巻く問題は、調べれば調べるほどわからなくなる。いま知りたいのは、悪いか悪くないかではなく、最初から「事実を調べ直して世の中に提示する」ことだ。そして事実を調べて社会に示すことこそが報道ではないのか。その上で何が悪くて悪くないかは司法の仕事であり、社会の側が考えることだ。テレビ報道がやってきたのは、社会的処刑に近い。PR会社の社長が選挙法違反かどうかを決めるのは、メディアでも視聴者でもなく、司法だ。
私が言いたいのは、そんなことだから「ふてほど=不適切報道」と揶揄されるのだということだ。いまのようなテレビ報道の状況では、デマが多いと知った上でSNSに出ている正しいと思える情報を基に、自分で判断するほうがよほどマシだ。兵庫県知事選挙では、兵庫県民がそんなふうに自分で情報を探って自分で判断して結果が出た。テレビが報道しないのだから当たり前だ。 同じ時期の出来事としてアメリカ大統領選挙がある。民主党が負けたことと、テレビ報道が批判されていることは近似した現象だと私は考える。
Netflix映画「ヒルビリー・エレジー郷愁の哀歌」は次期副大統領JDヴァンスの自伝が原作。ラストベルトの貧しい一家で育った主人公は大学に入り東部のエリートたちの仲間入りをしようと彼らとの食事会に参加する。ところがエリートの一人が彼の故郷のことを「Red Neckばかり」と蔑む。 Red Neckとは「無学な白人労働者」の意味だそうだ。主人公は猛烈に怒る。 このシーンを見た時、民主党が負けた理由がよくわかった。元々は労働者の味方だったはずの民主党は今や、カリフォルニアと東部のみで支持されるお金持ちの政党になってしまった。だから白人労働者の支持を失ったばかりか、民主党支持者が無学と馬鹿にするすべての層が離れてしまった。
民主党支持者は、共和党支持者を「無学」と感じているだろう。そしてそれに極めて近いポジションに日本のマスメディアはいると私は思う。自民党支持者に「劣等」という言葉を発したジャーナリストもいた。 ■テレビ報道は立ち位置を変えたほうがいい 日本のテレビ報道は総じて、「リベラル」の側にいた。だがリベラルは学生運動に身を投じていた団塊の世代に多かったポジションだ。機動隊に石を投げたと自慢しつつ大企業で出世し、権力の側にいるのに反権力を気取る。立憲民主党の支持者に高齢層が多いのもその現れ。そして日本のテレビ報道はなぜか、団塊の世代の姿勢を引きずってきた。それがアメリカの民主党と似てしまっているのだ。