「模擬原爆」被弾地の“地獄”を伝える「平和祈願之碑」 富山市で犠牲者追悼慰霊式
朝鮮人労働者も犠牲に
祖父と同名の孫、鈴木善作さん(73歳)によると、父の善蔵さんは戦後長らく戦争の話をしなかったが、碑を建てた後にポツポツと話すようになったという。「父にとっては辛い体験だったが、こうして『平和祈願之碑』という碑があることで悲劇が伝えられ、知られてきた。碑も、そして忘れ形見として祖父の名を継いだ私も、この出来事を伝える重要な役割を任された。平和への思いを受け継いでいきたい」と語る。「富山大空襲を語り継ぐ会」事務局長の柴田恵美子さん(76歳)は「戦争や空襲の歴史を知ることは、それがいかにひどいものだったかと同時に、私たちがどう生きるべきかを教えてくれるという意味でも重要。今後も語り継いでいきたい」と述べた。 富山市では豊田本町への投下の6日前の7月20日にも、近接する中田・森の両地区と下新西町の軍需工場を標的に計3発の模擬原爆が投下された。中田・森地区では朝鮮人労働者がいた施設が直撃を受け、死者47人、負傷者40人以上と言われる甚大な犠牲が出た。 91年以降「春日井の戦争を記録する会」の金子力さんや、元・徳山工業高等専門学校教授の工藤洋三さんらが米軍資料から、米軍の原爆投下部隊・第509混成群団が広島・長崎を前に模擬原爆・パンプキン爆弾で投下訓練を行なったことを明らかにした。その破壊攻撃は「搭乗員たちに心理的高揚を与える目的もあった」(第509混成群団の作戦計画の要約)という。人命を弄ぶ戦争の“地獄”の断面がここにある。来年は戦後80年。戦争体験者が激減する中、その歴史を直視し語り継ぐことは今生きている一人ひとりの責務だ。富山の碑も語り部たちも、命の大切さを語り、伝え続けている。
藍原寛子・ジャーナリスト