戦後で「最大の善人宰相」…村山富市の「立派だったところ」と「いただけないところ」
戦後の首相経験者のうちで最も「善人」度が高いのは好々爺・村山富市だろう。大震災における失言はあったが、復興対策では環境を整えた上で、結果責任はすべて自分が負う姿勢を貫いた。 【写真】安倍晋三が恐れ、小池百合子は泣きついた「永田町最後のフィクサー」 一方で、村山は過ちも犯したのではないか……と、永田町取材歴35年、多くの首相の番記者も務めた産経新聞上席論説委員・乾正人は言う。「悪人」をキーワードに政治を語る『政治家は悪党くらいでちょうどいい!』(ワニブックス刊)より一部を抜粋編集してお送りします。
戦後最大の「善人」首相といえば間違いなくこの人
戦後すべての首相経験者のうち、最も「善人」度が高いのが、村山富市だろう。 細川政権の連立政権下、私が担当した社会党委員長時代の村山は温厚な性格で(小沢一郎が社会党はずしをしたときには激しく怒っていたが)、好好爺という表現がぴったりとあてはまった。彼が社会党のトップでなかったならば、政策的に水と油だった自民党と社会党がくっつき、さきがけを含めた三党による連立政権は成り立たなかった。 政権樹立に際して村山が、それまでの社会党の政策とは180度異なる自衛隊合憲や原子力発電の容認どころか、日米安保体制の堅持まで明言したのには、私でさえ腰を抜かすほど驚いた。 それでも社会党がすぐには分裂しなかったのも「トンちゃん」こと村山の人徳のなせる業だった。
阪神・淡路大震災でミスを重ねたが…
だが、村山は総理大臣として大きなミスを何度も重ねた。 なかでも最大の失策は、平成7(1995)年1月17日午前5時46分に起きた阪神・淡路大震災への対応だった。 そもそも発生の一報が首相に届けられた時間が今もはっきりしない。当時、災害対策を所管していた国土庁(現・国土交通省)には大震災などに対応する危機管理のための当直システムがなく、当時は、一報をNHKで知った秘書官が、午前6時過ぎに村山に伝えたと広報された。 だが、悪いことは重なるもので、1月17日は、「自社さ」連立政権といいながら自民党主導の政権運営ぶりに反発を強めていた社会党右派の山花貞夫らが離党し、新党を結成しようとしていたのだ。 社会党の分裂騒動に心を痛めた村山は、不眠の日々が続き、前夜は睡眠導入剤を飲んでいたとされ、一説には発生から約2時間後にようやく事態を把握したという。 1月17日の早朝、官邸は機能不全だった。影の首相と呼ばれた事務方の官房副長官、石原信雄が、早朝の散歩中にラジオで一報を聞き、神奈川県・あざみ野からタクシーを飛ばして官邸入りしてからようやく非常災害対策本部を立ち上げた。 震災対応のための臨時閣議が開かれたのは、午前10時になってから。当然の如く、自衛隊の出動は遅れ(兵庫県から自衛隊への出動要請も遅れた)、村山は大きな批判を浴びた。 初動の遅さを国会で追及された村山は、「何分(なにぶん)初めてのことで……」とつい、本音を漏らし、追求の火に油を注いだ。 ただ、村山のために一言、弁護すれば、初動にあたる発災後72時間の対応はゼロ点だったが、復旧復興対応は、子細を担当大臣に起用した自民党の小里貞利(おざとさだとし)が即断即決できるよう大きな権限を与えたのをはじめ、おのおのの大臣が復興対策をやりやすいよう環境を整えた上で結果責任はすべて自分が負う姿勢を貫いた。東日本大震災後、福島原発事故の対応で「俺が、俺が」としゃしゃり出て、現場を大混乱させた菅直人に比べて、かなり立派だった。 発災から一年経ったのを機に首相の座を自ら降りる決断をしたのも権力に固執しがちな並の政治家にはできない見事な出処進退であったことは、「善人政治家」の矜持を示したといっても過言ではない。 ちなみに宰相でも善人でもないので、今回は俎上にあげなかったが、村山政権を副総理兼外相として支えた河野洋平のほうがもっと罪深い。