虐待被害者が結婚でDV被害者に。ワンオペ育児の過酷な日々、夫のDVで産後うつに。でも「父の性虐待よりまし」と思えた
◆私が受けたDVは『耐えられる』DVか 近年、ニュースでたびたび目にする離婚後の「共同親権」について、共同親権推進派の柴山昌彦衆議院議員が以下の発言をしたことは記憶に新しい。 「公正中立な観点から、DVの有無とか、それが『本当に耐えられるものか耐えられないものであるかということを判断する』仕組みの一刻も早い確立が必要だと思っているんです」 この発言を聞いた時、「私が元夫から受けたDVは『耐えられるDV』と『耐えられないDV』どちらと判断されるのだろう」と思った。そもそも『耐えられる』DVとは、果たしてなんだろう。殴る蹴るなど、外傷が残る被害は『耐えられないもの』に分類されやすい。では、言葉や態度で切り刻まれた心の痛みは、表に見えない苦痛の程度は、誰がどのような基準で判断するのだろうか。 精神科の主治医は、元夫の暴言を「DVです」と断言した。だが、元夫をはじめとして、彼の親族や私の両親はそれを真っ向から否定した。私に「耐えるべきだ」と詰め寄り、耐えられない私の辛抱が足りないのだと非難した。被害者の声は、往々にして矮小化される。本当の被害を「被害妄想」という箱に封じ込める加害者の詭弁を見抜ける“仕組み”でなければ、共同親権の施行は多くのDV被害者を奈落の底に突き落としかねない。 2024年1月29日、離婚後の共同親権導入に向けた民法改正の要綱案がまとめられた。法務省では、本年度の国会に民法改正案を提出し、共同親権成立を目指す方針で議論が進められている。 法改正前に離婚した事例であっても、相手方からの申し立てがあれば共同親権が導入されるという。これにより、元配偶者からの虐待やDVを理由に離婚した被害者たちが再度危険に晒される懸念が叫ばれている。発言力のある人がどれだけ被害者の声に耳を傾けられるかどうかで、被害者親子の安全確保は大きく左右されるだろう。
◆長男の泣き声に耐えきれず叫んだ 元夫との性行為を終えたあとに「用済み」と言われた夜、私は一睡もできずに朝を迎えた。自分が言われた台詞を脳内で反芻しては、「許せない」と「大したことじゃない」が行ったり来たりする。その繰り返しは、私の精神を思いのほか蝕んだ。憤りを伝えても、どうせまた「それで怒るお前がおかしい」と言われる。謝ってほしくて気持ちを伝えても、想像の斜め上の答えを突き返される。だったら何も言わないほうがいい。 別れるつもりがないのなら、事を荒立てずに黙って笑っていればいい。そう結論付けた私は弱い人間だったと今は思う。誰かに必要とされる自分でありたくて、そのためには我慢が一番の近道だと思っていた。しかし、現実と理想が乖離していくにつれ、心が無理やり引き伸ばされていくようだった。無理は長くは続かない。それに気づいた時には、すでにいろんなことが手遅れだった。 長男の泣き声を聞くたびにイライラするようになり、すべての家事と育児が億劫になり、食事をとることさえ面倒に感じた。そのうち、元夫への苛立ちがなぜか長男に向かいはじめた。自分の中に潜む残酷さを目の当たりにするたび、恐ろしくて震えた。 母のようにはならない。私はあの女とは違う。虐待を連鎖なんてさせない。私はちゃんとこの子を育て上げてみせる。何度もそう言い聞かせ、イライラを抑え込んで長男に笑いかけた。しかし、彼はいつだって1時間おきに泣き、短いと30分で愚図りはじめる。抱いても、授乳しても、おむつを替えても、着替えても、何をしても気に入らずに泣き続ける日もままあった。長男は、いわゆる「疳の虫が強い」子どもだった。 「うるさい……!!」 ある日、堪えきれずに叫んだ。長男は一瞬だけ泣きやんだものの、直後に火がついたように泣き出した。赤ん坊は泣くのが仕事で、母親はそれを見守るのが仕事で、私は母親なんだからいつだって笑顔で優しくあらねばならないはずで、でも、何もかもが上手くできない。絶望するのと同時に、自分は結局、あれほど忌み嫌ってきた母親と同じなのだと思った。