創業期から沿線開発に熱心でビジネス意識に富んだ「小田急電鉄」。沿線環境の豊かさに加えて、箱根観光の楽しさも活動の重要な要素に
『沿線格差』という言葉を目にすることが増えましたが、フリーライターの小林拓矢さんいわく、「それぞれの沿線に住む人のライフスタイルの違いは、私鉄各社の経営戦略とも深くかかわっている」のだとか。今回はその小林さんに「小田急電鉄沿線の魅力と実情」を紹介していただきました。小田急電鉄は、当時の水準としては工事が手早く行なわれ、しかも線形のいい路線だったそうで――。 【書影】関東8大私鉄の「沿線力」を徹底比較!小林拓矢『関東の私鉄沿線格差: 東急 東武 小田急 京王 西武 京急 京成 相鉄』 * * * * * * * ◆小田急電鉄沿線の魅力と実情は? 小田急電鉄は、利光鶴松(としみつつるまつ)が鬼怒川(きぬがわ)水力電気の子会社として設立したのが始まりだった。 小田急の特徴として、中心となる小田原線を1927(昭和2)年4月に開業、同年の10月には全線を複線化した。 主要な支線である江ノ島線は1929(昭和4)年4月に開業し、こちらは当初から全線複線だった。 小田急電鉄は当時の水準としては工事が手早く行なわれ、しかも線形のいい路線であった。 新宿と小田原を高速で結ぶという使命を持ち、開業して1年も経たないうちに急行列車を運行するという積極的な姿勢を示した。 成城学園や林間都市の開発にも着手し、子会社の帝都電鉄(現在の京王井の頭線)も開業する。 小田急は、鉄道の速達性を重視し、沿線開発にも創業期から熱心であり、きわめてビジネスへの意識に富んだ鉄道会社といえる。 北側を走る京王電鉄と比べても、その差は大きい。京王が時間をかけて沿線開発を行なったのに対し、小田急は創業当時から沿線開発に熱心だった。 このあたり、利光鶴松が電力会社経営者で、起業家精神が旺盛(おうせい)だったという背景がある。
◆鉄道を中心とした複合ビジネス 戦前の電力事業は、電力自由化前の規制事業とは異なり、自由に事業を起こすことができた。 戦時下で電力が国家管理されるまでは、鉄道会社と電力会社を一緒に営んでいる事業者が多かった。 東急の五島慶太(ごとうけいた)ほどではないにせよ、鉄道を中心とした複合ビジネスというモデルを意識していたのが小田急である。 そのような経緯もあってか、沿線の住環境はすこぶるよい。 甲州街道沿いの京王電鉄のように、古くからの地域を通っていないため、イチから沿線をつくるということになった。 学校を誘致し、住宅地を開発し、多摩ニュータウンの開発の際には新線を建設した。 戦時下で小田急は「大東急」に編入されたものの、1948(昭和23)年6月に独立。その年のうちに小田原への特急を運行するようになった。 1950(昭和25)年8月には、箱根登山鉄道の箱根湯本乗り入れもスタートした。 このあたりから、沿線環境の豊かさだけではなく、箱根観光の楽しさも企業活動の重要な要素となっていった。
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