レスリング女王・須﨑優衣「一番へのこだわり」と勝負強さの原点。家族とともに乗り越えた“最大の逆境”と五輪連覇への道
完敗から半年でリベンジ達成。悔しさが勝利への原動力に
――最も印象的だったタイトルを挙げるとすれば、どの大会ですか? 康弘:一番印象に残っているのは、高校1年生だった2015年に、シニアの全日本選手権に初めて出場した時に決勝戦まで行ったんです。僕たちは「よくそこまで行けたな」と賞賛したい気持ちがあったのですが、その決勝戦で、自衛隊体育学校の7歳上の入江ゆき選手に0-10のテクニカルフォール負けで完敗してしまいました。その時に優衣が本気で大泣きしていたので、「もしかしてこの子は本気でオリンピックを目指しているのかな」と思って、少しびっくりしたんです。ただ、その半年後に行われた明治杯という全日本選手権の試合で、入江選手に決勝戦で勝ちました。エリートアカデミーの吉村祥子コーチの指導の成果も大きかったと思いますが、完敗した相手に半年間で勝てるようになるのは並大抵のことではないですし、その涙は、他の大会で優勝した時よりも印象に残っています。 ――優衣さんは好きな数字が1番で、ロッカーとか編み込みの本数にも「1」を選ぶそうですね。 麻衣:そうです。「1」という数字に強くこだわりがありますし、金色のものとか、金メダルを連想させるような色もたくさん集めていますね。 ――レスリングノートを欠かさずつけているそうですが、これは康弘さんのアドバイスもあったんですか? 康弘:ノートはつけた方がいいよ、とは言っていたんですが、具体的にその内容を読んでいたわけではないです。アカデミーで吉村コーチや、当時の菅芳松監督に指導してもらうようになってから丁寧にノートをつけるようになって、今でもつけているので、続けることはすごいことだなと思っています。自分の目標に対する集中力は、人一倍持っていると思います。
逆境乗り越え、頂点に立った東京五輪
――これまで、優衣さんのレスリングを近くで支えてこられた中で、困難な時期や逆境もあったと思いますが、それぞれどんなシーンが印象に残っていますか? 麻衣:強い選手がたくさんいる中でも、同じ48kg級で一緒に戦ってきた登坂絵莉選手と入江選手の2人の存在はやっぱりすごく大きかったですね。その2人が出場する大会でどうやって勝つかが、いつも大きなプレッシャーになっていたと思います。2人に勝たなければ優勝できないし、オリンピックにも出場できない状況だったので、すごく大変だったと思いますが、あの時期があったからこそ、今があるなと心から思います。 ――当時、麻衣さんは優衣さんをどんなふうにサポートされていたんですか? 麻衣:技術の面では妹の方が全然上なので、そういうアドバイスはせずに、いかにモチベーションを上げるかを考えて、メンタルの部分で支えになれればいいなと思っていました。練習を一緒にしたり、試合の前には「今まで練習してきたことを信じれば絶対大丈夫」というふうに、気持ちを上げるような言葉を伝えて。試合会場では、届いているかわからない中でも、大きな声で応援していました。 和代:私は、一番の逆境というと、やっぱり2018年の天皇杯欠場から始まって、2019年の(世界選手権で入江選手と世界選手権の代表を争った)プレーオフの時期を思い出します。 康弘:シニアの大会に切り替わってからは、私もその時が一番大変な時期だったと思いますが、もう一つは、小学校時代のレスリングをやり始めた時に、千葉県の他のクラブのライバルの選手になかなか勝てなかった時期です。その子は優衣よりも体が少し大きかったんですが、「その子に勝ちたい」という気持ちを持ち始めてから、かなり真剣に練習をするようになって、対策を考えていた時期がありました。その時は1年間くらいかけてその子に勝てるようになったのですが、私にもどういった技が有効かをよく聞きに来たり、子どもなりの執念というか、勝ちたい気持ちの強さは記憶に残っています。その勝利への執念は、今にもつながっていると思いますから。