中国史上もっともアナーキーな思想家たち「竹林の七賢」が教える、「正しい酒とのつき合い方」
あの「三国志」で描かれた戦乱のなかに漢王朝は滅び、権力を支えた儒教の権威も失墜した時代に、「竹林の七賢」と呼ばれるアナーキーな思想家たちが活動していた! 権力に睨まれ刑死した者あり、敢えて世俗にまみれた者あり……詩を詠み、議論を戦わせ、楽器をかき鳴らし、葛藤を抱えながら己の思想を貫こうとした彼らを語るうえで、欠かせないのが「酒」である。 【写真】中国史上いちばんヤバい思想家たち「竹林の七賢」 彼らの群像を、シャープな筆致で簡明に描ききる『竹林の七賢』(講談社学術文庫)から、酒にまつわるエピソードを紹介しよう。 *この記事は同書からの抜粋です
きっちり八斗飲む男
『世説新語』の任誕[にんたん]篇は、「竹林の七賢」の面々がいつも竹林につどって心ゆくまで痛飲したと伝えている。「竹林の七賢」について語るさい、酒はぜひともとりあげなければならないテーマの一つである。 山濤[さんとう]も八斗を酒量とするほどの酒豪であった。ところが、晋の武帝がこっそり八斗にいくらか追加して飲ませようとしたところ、きっかり八斗できりあげたという。いかにも折目正しい山濤らしい話である。当時の八斗は今日の升目[ますめ]では九升弱に相当するであろうか。それでも大変な酒量だが、ただし当時の酒は、さほどアルコール濃度が高くなかったようである。 魏晋に先だつ漢代の酒に関してのことではあるけれども、十一世紀北宋[ほくそう]の沈括[しんかつ]の『夢渓筆談[むけいひつだん]』巻三につぎの記事がある。 「漢代の人のなかには、一石[こく]の酒を飲んでも乱れないものがいた。わたしが酒の製法で比較してみたところ、粗米(玄米)二斛(石)ごとに六斛六斗の酒が醸造された。現在では、ごく薄い酒でも、一斛の秫[もちあわ]で一斛五斗の酒しか造れない。もし漢代の製法でゆくと、ほんのり酒気があるだけである。酒に強い連中ががぶがぶ飲んでも乱れなかったのも、別に不思議ではない」。
飲み会の喧嘩はすぐに逃げ出せ
それはさておき、ともかく酒の量をわきまえていた山濤。そして嵆康[けいこう]も、酒にたいしてはすこぶる慎重であった。向秀[しゅうきょう]の「難養生論[なんようせいろん]」に答えた「答難養生論」に、かれは美食と飲酒が生命をちぢめるもとであることを説いている。 「今もし肴[さかな]や酒が長寿のもとだというのであれば、吞兵衛のなかに白髪がさらに進んだ黄髪の老人がいるはずだが、聞いたためしがない。またもし好きなだけ食べるのがよいというのであれば、美食家のなかに百歳の長寿のものがいるはずだが、聞いたためしがない。……それにもかかわらず、人びとはあくせくと米作りにはげみ、わが身を犠牲にして土地を争い、親にたいする孝養、尊者にたいする捧げ物は酒と米、もてなしや宴会には嘉肴[かこう]と美酒といったありさまだが、それらがいずれも筋肉と体液を軟弱にし、もろくて腐りやすくさせることを知らないのだ。最初のうちこそ甘くて香り高いものの、いったん体内に入ると臭気ふんぷん、精神はぼろぼろ、五臓六腑は汚染され、むんむんと穢けがれた気が立ちのぼって蝕れることとなる。餓鬼が忍びより、万病にとりつかれるわけであって、これを味わうものは感覚が麻痺し、これを口にするものは命をちぢめるであろう」。 息子たちに人生の戒めを説いてきかせる嵆康の「家誡[かかい]」のなかにも、つぎの一段がある。「もし酒席に居あわせ、人がいさかいをはじめて、しだいにすさまじくなりそうな気配を察したならば、すぐにさっさとひきあげるべきである。それはなぐりあいの喧嘩に発展する兆候だからだ。 居のこって見物していれば、必ず両者のどちらが間違っているか、どちらが正しいかがわかり、ときには発言をせざるを得ない羽目にたち至るであろう。発言をすれば、どちらか一方が正しいことになり、間違っているときめつけられた側は、自分では正しいと信じているから、間違いだときめつけたのは相手にひいきしている証拠だと考え、怨みの気持ちをいだくことになる。 はたまた、だれかが侮辱的な言辞をあびせられているのに、黙って見物しているだけで、両者の是非がわかっていながら、いさかいにけりをつけないようでは、優柔にして武ならず、正義にもとることになる。だから逃げ出すべきなのだ」。 もし万が一、逃げ出せない場合には酔いつぶれてしまうがよい、と教えているのが面白いが、しかしながら「家誡」の最後は、またあらためて酒についてのお説教で終わっている。「しつこく他人に酒を無理強いしてはならない。相手が飲まなければ、やめることだ。もし人から酒をすすめられたなら、盃をうけ、さからってはならないが、ほろ酔いのところできりあげる。自制がきかないまで泥酔することは断じてならぬ」。