中国史上もっともアナーキーな思想家たち「竹林の七賢」が教える、「正しい酒とのつき合い方」
「僕はいつも孔子を馬鹿にしています」
とはいえ、嵆康がまったく酒をたしなまなかったわけではない。それどころか、「絶交書」には、つぎのような言葉さえあらわれるのだ。「濁酒[だくしゅ]一杯、弾琴[だんきん]一曲、志願畢[つ]くせり―濁酒[にごりざけ]をぐいと一杯やり、琴を一曲演奏することができるならば、それでもう本望です―」。 「絶交書」は、吏部郎[りぶろう:人事担当官]から他の官職に転任することとなった山濤が、後任として嵆康を推薦したとき、自分には宮仕えに我慢ができぬ七つの条件と不向きな二つの条件があることを述べて吏部郎就任を謝絶した書簡であり、そのなかに、「毎[つね]に湯武[とうぶ]を非[そし]って周孔[しゅうこう]を薄[うと]んず―僕はつねづね殷[いん]の湯王や周の武王を誹謗し、周公や孔子を馬鹿にしています―」、このような激しい言葉があらわれることで有名である。 殷の湯王、周の武王、周公、孔子、いずれも儒教が聖人としてあがめるところ。その「絶交書」には、「養生論」とあい呼応して、「僕は最近、養生の術を学んでおり、いまや栄華を忘れ、口からは滋味を去り、心を寂寞[じゃくばく]たる境地に遊ばせ、無為なる生き方をこよなくすぐれたものと考えています」とも述べられているのだが、このようにすでに滋味を口から去ったはずの嵆康が、また同時に、「濁酒一杯、弾琴一曲、志願畢くせり」と述べているのである。 それだけではない。嵆康には酒のつどいをうたった「酒会詩」七首の作品もあり、先に紹介した山濤の「嵆叔夜の人と為なりや、巌巌として孤松の独り立つが若[ごと]し」という嵆康評は、「其の酔えるや、傀かい俄がとして玉山の将[まさ]に崩れんとするが若し」とつづくのだ。七尺八寸、今でいえば一九〇センチメートルほどの長身であったと伝えられる嵆康。その人の酔いっぷりは、がらがらと玉の山が今にも崩れんとする勢いだ、というのである。
吉川 忠夫