秀吉に邪魔された荒木村重の「野心」
■信長から高く評価された荒木村重 荒木村重(あらきむらしげ)は、突如として主君の織田信長に反旗を翻したものの、自分の命惜しさに家族を見捨てて逃亡した、卑怯者の武将というイメージが一般的かもしれません。 しかし、村重は摂津池田家の家臣から身を起こし、信長に摂津一国の統治を任されるほどの実力を有した武将です。また、これまでの通説とされていた、有岡城からの逃亡も、実際は信長軍への反転攻勢をかけるために必要な行動だったと言われています。 村重は本能寺の変によって信長が亡くなった後は、堺へ居住し、茶道の宗匠(そうしょう)として秀吉に仕え、その才能から政治的な役割を期待されていました。 村重の評価を著しく下げているのは、他社には理解できない「野心」的な行動原理にあるのかもしれません。 ■「野心」とは? 「野心」とは辞書によると「ひそかに抱く、大きな望み。また、身分不相応のよくない望み。野望」や「野生の動物が人に馴れずに歯向かうように、人に馴れ服さず害を及ぼそうとする心」とされています。よく混同される「野望」も、「分不相応な望み。また、身の程を知らない大それた野心」と同じような意味があります。 しかし「野心」には、新しいものへの挑戦というニュアンスが含まれていて、ポジティブなイメージでも使われます。村重の行動には、家柄や出自に縛られない実力で立身出世を遂げようという「野心」が見え隠れしています。 ■荒木家の事績 荒木家は、藤原秀郷に連なる波多野家の者が丹波国荒木村に住んだのが始まりとされています。その後、摂津国に土着し摂津池田家に仕えたと言われていますが、詳細は不明です。 池田家の家臣として活躍し、1573年頃に信長の信任を得るようになると、織田家の直臣となり、摂津国の支配を任されるようになります。 その後、織田家の中国進出のために浦上(うらがみ)家と宇喜多(うきた)家の争いに介入していきます。明智光秀の娘を嫡子村次の妻に迎え、縁戚関係を結んでいたと言われています。また、畿内方面の司令官である佐久間信盛(さくまのぶもり)の指揮下で、本願寺との石山合戦や紀州征伐へ参加し活躍していきます。 そして、中国方面の司令官羽柴秀吉の与力となり、謀反した別所家の三木城の攻囲戦に加わっています。しかし、突如として居城の有岡城へと引き返して籠城し、中川清秀(なかがわきよひで)や高山右近(たかやまうこん)と共に織田家へ反旗を翻します。 足利義昭(あしかがよしあき)や本願寺の誘いもあったようですが、謀反に応じた理由は不明です。ただ、立身出世という「野心」の視点で考えると、状況的には致し方無い判断かもしれません。