「変人扱いされる」元世界王者・辰吉丈一郎52歳、波瀾万丈のボクシング人生
「タッツヨシ! タッツヨシ!」。コールの波が何度も押し寄せるなか、興奮した若者たちがリングめがけて殺到したのである。 「時代が時代だったんじゃないですか。わーっと歓声を上げて、みんなで騒ぎたいというか、発散したかったんじゃないですかね。僕の試合会場って、いつもどんちゃん騒ぎみたいだったから」 ただ、辰吉の試合を何度も裁いた世界的レフェリーのリチャード・スティール(米国)は「彼ほど青少年を熱狂させたボクサーは他に知らない」と言った。それは辰吉のセンスあふれるボクシングが、人間的魅力が、波瀾(はらん)万丈の歩みが引き起こしたものだった。
いじめられっ子の人生を変えたケンカ
1970年、岡山県倉敷市に生まれた。後に瀬戸大橋が開通する風光明媚(めいび)な瀬戸内海沿岸の児島地区。ふるさとの記憶の中に、物心つく前に家を出た母の姿はない。 「うちは父子家庭で、父一人子一人の生活でした。家は貧乏でテレビも電話もなかった。地元は繊維や衣料の産業が盛んで、父ちゃんはジーンズとかズボンをアイロン加工する仕事をしていました」 のちにボクサーとして一世を風靡した辰吉は、軽妙なトークも人気だったが、幼少期は違ったらしい。 「歩いたりするのは早かったんですけど、頭が悪かったせいなのか、しゃべれるようになるのが遅くて。それでちっちゃいときは、いじめられていました」 そんな丈一郎少年を、父の粂二(くめじ)は何も言わずに温かく見守って育てた。 「毎朝仕事に行って夕方5時ぐらいに帰ってくる。そこから夕飯の買い物に行って、僕の食事を作ってくれました」
2人の質素な生活に「ボクシング」という新たな核ができるのは、辰吉が5歳の頃だ。 「父ちゃん自身が体を鍛えていて、家の外につるしたサンドバッグをたたいたりしていたんです。僕もそれにつられて一緒にやるようになって、父ちゃんと毎晩練習するようになった。殴り方を教わって、相手がこう来たらこう殴ればいいみたいに。田舎だし、夜にサンドバッグをたたいても近所迷惑にもならなかった」 保育園でいじめられていた少年は、父からの手ほどきで少しずつ自信のようなものが芽生えてくる。そして、人生を変える出来事が起きた。 「あるとき、いじめに来た子がおったから、いつも父ちゃんと練習しているように殴ったら、思い切りすってんころりんと倒れたんです。それを見て、あれ、ひょっとして自分、強いんと違う? って勘違いしたのがすべての始まり。それからは小学校に上がっても、いじめられることはもうなかったな」 己の強さに気づいた辰吉は、やんちゃに拍車がかかっていく。ケンカに明け暮れた中学時代には「辰吉」の名前は倉敷、いや岡山じゅうに知れ渡った。学校の成績は悪かったが、父が息子を怒ることはなかった。そこには粂二なりの考えもあったようだ。 「父ちゃんは自分が先頭に立っていれば、何の問題もないという考え方。人についていって仕方なくやる、みたいなのは嫌がりましたね。ケンカも売られたから買っていただけで、自分から売りはしなかったしね」