なぜ単なる「クルマ好き」が売れっ子自動車ジャーナリストになれたのか?
自動車ジャーナリストのレジェンド岡崎宏司氏が綴る、人気エッセイ。日本のモータリゼーションの黎明期から、現在まで縦横無尽に語り尽くします。 岡崎宏司の「クルマ備忘録」 クルマのメカやデザインを専門に勉強したわけでもない筆者が、なぜ、多くのメーカーに信頼される売れっ子自動車ジャーナリストになれたのか? その秘密は筆者ならではの試乗記にあった⁉
多くのクルマの開発に関わり、多くの人と出会った。楽しくも刺激的な仕事だった!
僕が自動車ジャーナリストとしてスタートしたのは1964年。日本のモータリゼーションが大きく動き出した時期だ。 日本の自動車産業は急速に力を強め、国内市場は凄まじい勢いで拡大。同時に海外市場での日本車の存在感も急上昇していた。 そんな絶好のタイミングで、僕は自動車ジャーナリストとしてのスタートを切った。ラッキーだった。
初めの3年半は、自動車専門誌の編集者として基礎を学んだ。と同時に業界に多くの知己を得たが、これが大きな財産になり、フリーランスへの転向を後押しすることになった。 フリーランス転向後の仕事は順調に、、いや急ピッチで増え続け、自動車専門誌だけでなく、一般誌紙にまで拡がっていった。 すごい量の仕事が舞い込んできたことには戸惑いもしたが、若さというエネルギーでクリアした。ほんとうに忙しい日々だったが、同時に、楽しくもあり、充実していた。 メーカーとの距離が近くなったことも、フリーランス転向後の大きな変化だった。こちらからの取材依頼という一方通行ではなく、メーカーからもあれこれ依頼や相談事が入るようになったのだ。 初めは間口の広い世間話的なやり取りといったこともあったが、回を重ねるごとに専門的なやり取りに変わっていった。どこのメーカーも、だいたい同じような流れだった。 専門的とはいっても、僕は理系の人間ではないし、理系の勉強もしていない。デザインの勉強もしたことはない。単純に言えば、単なる「クルマ好き」でしかない。
だから、メーカーのエンジニアやデザイナーと「専門的なやりとり」などできない。「クルマを見て、触れて、走らせて、感じたこと」を話すしかない。 ただ、僕には、年齢の割にはけっこうな「クルマとの付き合いの経験」があった。これは貴重なことだった。 16歳から19歳までの3年間、僕は2輪に狂っていた。学校から帰ればすぐバイクに飛び乗り仲間の元へ。そして、深夜までバイクの話に夢中になっていた。 週末はほとんどバイク仲間と遠出した。少数のグループだったが、みんな上手くて速かった。振り返ると、よくあんな走りをしていて無事だったと思う。 飛ばしはしても、無理 / 無茶はしなかったということになるのだろうか。誰も事故は起こさなかったし、怪我もしなかった。そんな仲間に鍛えられた「メリハリある飛ばし方」は、4輪に乗り換えても役に立った。 日本のモータリゼーションの大きな節目になった第1回 / 第2回日本GPに刺激され、週末には鈴鹿通いを重ねて腕を磨いたことも貴重な経験になった。