村上春樹の「中国についての考え方」がうかがえる、2004年発表の「重要な作品」をご存知ですか?
2004年に発表された
毎年ノーベル文学賞の発表の時期になると話題になるのが、作家・村上春樹さんの受賞の可能性についてです。 【写真】イベントでにこやかに話す、村上春樹さん 世界的に活躍し、日本でも群を抜いた人気作家である村上さんが、いまの世界になにを感じ、どのような発言をするのか、注目している人も多いことと思います。これまでも「壁と卵」などの発言が大きく取り上げられてきました。 ところで、そんな村上さんの「中国についての考え方」がうかがえる作品があることをご存知でしょうか。 それは『アフターダーク』という、2004年に発表された作品です。 文芸評論家の加藤典洋さん(故人)が、自著『村上春樹の世界』のなかで、初期の作品である『中国行きのスロウボート』(1983年年に発表)と対比するかたちで、『アフターダーク』についてこのように述べています(読みやすさのため、改行を編集しています)。 〈村上春樹が、作家人生の最初の短編に、中国人とのすれ違いの思い出を書いたということは、日本(人)は中国に対していまなお謝るべきところをしっかり謝りきっていない、そのことが自分には耐えられないほど、苦しい、ということかもしれない。村上春樹という小説家の底にあるのは、それくらいナイーブですらある、戦後の日本に対する罪責感なのではないか。 彼はそういう意味では、短編の第一作に、彼の心の一番深いところにあるモチーフを書いてみようとした。そしてそのことは、この村上春樹という──社会へのコミットを忌避し、受動的だと攻撃されることの多い──小説家が、本当は深いコミットメントの姿勢をもつ小説家であることを、何より雄弁に語っているのではないだろうか。〉 〈その傍証になるかどうかわかりませんが、実はこれと同じモチーフが、のちの二〇〇四年の『アフターダーク』という長編に、繰り返されています。「中国行きのスロウ・ボート」の中心的エピソードは一人の中国人のバイト仲間の女の子と「僕」との「すれ違い」を描く心に残る二番目の挿話なのですが、そこに登場する中国人は、日本生まれで日本の学校に通い、将来日本語と中国語、英語などの通訳になりたいという希望をもつ十九歳の女の子です。 ところで、『アフターダーク』の女性は、日本人で、十九歳。日本の学校が合わないで横浜の中華学校に通い、大学で中国語を勉強して、やはり将来は翻訳家か通訳になりたいと希望している。つまりこれは、「中国行きのスロウ・ボート」の中国人の女の子の設定を本歌とした、明らかな反歌としての日本版の設定なのです。主人公の名前は浅井マリですが、それに対応するようにドンリ(冬莉)という同じ脚韻の名前をもつやはり十九歳の中国人女性も、そこに登場してきます。 それだけではない。「中国行きのスロウ・ボート」に出てくる三人目の中国人の元同級生は、君は「昔のことを忘れたがっている」が、「俺は君と同じ理由で、昔のことをひとつ残らず覚えてる」んだ、「忘れようとすればするほど、ますますいろんなことを思いだしてくるんだよ」と奇妙に意味深なことを語るのですが、このモチーフも、『アフターダーク』でよりシリアスに反復されます。 おまけに「中国行きのスロウ・ボート」で「僕」が女の子の連絡先を書いたメモをすぐに間違って捨ててしまうところ、『アフターダーク』に出てくる中国人の男、あるいは主人公の男友達は、大事な惰報、ないし主人公の女の子の同様のメモを、大事に折って仕舞うのです。〉 〈他にもいろいろありますが、端折ります。ただ、『アフターダーク』は、ボストン・レッドソックスの野球帽をかぶっている主人公がアメリカにではなく、オリンピック開催前の北京に留学に行くところで終わる。 この『アフターダーク』が構想されたのは、たぶん二〇〇〇年代初頭、二〇〇八年開催の北京オリンピックを前に、日本では中国語を習う人が爆発的に増えていた時期です。その直後、二〇〇一年、小泉純一郎が首相になり靖国参拝を強行して、一転、両国の感情的な対立が激しくなってもいく。 さらにその後、中国の国力が増してきて、中国に対する不安感が日本の社会にも広まって、両国の間に緊張が高まり、現在は中国と日本はそんなに良好な関係とは言えないのですが、でも、これから二十年くらい経ってみると、どうでしょう。日本がアメリカから中国のほうにシフトしたということの最初の指標として、村上春樹のこの小説がクローズアップされることになるのではないか。僕はひそかにそう予想しています。〉 この加藤さんの文章、もとになったのは2011年の講演です。つまり、上の文章に出てくる「20年後」というのは、2030年前後のこと。はたしてそのころに再び『アフターダーク』に注目が集まるようになるのか。注目して、その時期を待ちたいところです。 * さらに【つづき】「村上春樹作品のなかで「多くの女子学生を惹きつけ」「複雑な母娘関係が描かれた」、意外なタイトルをご存じですか?」の記事でも、村上さんの「隠れた名作」について紹介しています。
古豆(ライター)