「物語」の気持ちよさに「酔いしれる」キケン…実は勇気が必要な「他人を理解しない」選択
「物語的不正義」の危険性
認識論の哲学者ミランダ・フリッカーは、『認識的不正義』において、マイノリティが自分の苦しみを説明するための概念を作り出さざるを得なかったり、マイノリティが直面する苦しみを説明する能力をマジョリティによって疑われたりするような不正義を「認識的不正義」として指摘している(フリッカー 2023)。 たとえば、身体的であったり精神的な障害を持つ人々が、自分たちのニーズや困難を社会に訴える際、しばしば「大変さを誇張している」や「他の人も同じように苦労しているんだよ」といった反応を受けることがある。このような反応は、障害を持つ人びとが自身の状況を健常者たちに説明するために新たなフレームワークや専門用語を開発する必要性を生み出し(たとえば障害の「社会モデル」など)、さらに彼らの説明能力が信頼されない(「聞く耳をもつ必要はない」と判断される)という認識的不正義を助長する。 この認識的不正義の一種として、物語的不正義という概念を作り出すことができる(cf. Fabry 2024a; Fabry 2024b)。物語的に生きてはいない人や、生きていたとしても他人に物語的に理解されたくない人びとにも物語的理解が押し付けられてしまう。 この物語の押しつけが、まさしく、面接における自己分析や自己紹介で人びとに強いられる物語的不正義なのである。さきほどのがんを生きる人びとへのポジティブな物語の押し付け、これもまさに物語的不正義の典型例の一つだろう。 哲学者のゲイレン・ストローソンは「物語性に抗して」において、物語的な自己理解の方法以外にも「エピソード的自己」が存在すると指摘した(Strawson 2004)。ストローソンは、自分の非物語的な自己理解や生き方が、物語的な理解にはそぐわないがゆえに、不道徳的であったり、道徳的に未熟とされてしまうような議論に対して批判を行っている(Strawson 2007)。まさしくストローソンが糾弾したのは、物語不正義であるといえよう。 物語不正義はこれまでほとんど指摘されてこなかった。だが、本稿で論じたように物語が引き起こす危険をひとまとめにして論じるためには、たしかに何らかの概念が必要だろう。