「物語」の気持ちよさに「酔いしれる」キケン…実は勇気が必要な「他人を理解しない」選択
私たちは、自分の話をするのが好きだ。 「私はこんな人である」「私はこんな苦難を乗り越えてきた」。 【写真】流行中の会話術、実は「キケン」 気づけば日常は、無数の「自分語り」に溢れている。 しばしば揶揄の対象となる「自分語り」。 しかし、そこには実際、どのような「わるさ」があるのだろうか。 「自分語り」に陥らないためには、どうしたらよいのだろうか。 現代社会を覆い尽くす、過剰な「自分語り」に違和感を感じるあなたへ。 美学者・難波優輝氏による【連載】「物語批判の哲学」第2回へようこそ。 【連載】「物語批判の哲学」第2回:物語という誤解・後篇 >>まだお読みでない方は、第1回・前篇「面接にも広告にも…「人生は物語」に感じる違和感の正体!「ナラティブ」過剰の問題」もぜひお読みください。
「物語」を押しつけられる気持ち悪さ
第2回・中篇では、「自分語り」が持つ性質と、その危険性について、詳しく検討した。後篇では、「自分語り」からさらに一歩踏み出して、「他人語り」が持つ危険性について見ていこう。 人は、自分に対して自己語りをするだけならば、それが愚かな選択であったとしても、本人の選択ということで許されるかもしれない。 だが、自己語りの枠組みを他人に適用する場合はどうだろうか。つまり、物語的な「他人語り(other narrative)」はどうだろうか。 他人語りにも危険がある。自己語りが持つ改訂排除性と目的閉塞性の2つの危険性を他人語りはそっくりそのまま持ってしまうだろう。他人を語るということ、他人を理解するということは、つねによいことばかりではなく、他人を誤解し、他人から解釈を奪うような暴力をもたらすこともあるのだ。 自己語りに用いられる物語的語りは、他人にもしばしば使われる。その際に起こる問題は、自己語りで起こる問題に加えて、特有な問題がある。 それは、他人が他人自身を解釈する自由を私たちが奪い取り、他人語りをすることで、解釈の独占を行うような危害を与える可能性である(Fabry 2024a; Fabry 2024b)。これを「物語不正義(narrative injustice)」と私は呼びたい。