「物語」の気持ちよさに「酔いしれる」キケン…実は勇気が必要な「他人を理解しない」選択
「物語」の気持ちよさに抗う
物語的不正義と向き合うために、私たちは「物語的徳(narrative virtue)」を鍛えなければならない、と私は主張する。 「物語的徳」の特徴---◼︎ 不必要に他人を物語的に理解するのではなく、いまの自分の理解を手放し、相手を物語叙述の世界に閉じ込めないこと◼︎ いつ物語的理解を行うべきで、いつ行わないべきなのかを判断する能力を身につけること◼︎ 理解不可能な相手をまず相手の言い分を聞くことで理解しようとすること 以上が物語的徳の特徴だと考えたい。 人びとは、しばしば、物語的に他人を理解することで気持ちよくなってしまう。それは、相手を語ることで、物語的に支配したような気持ちになれるからだろうか。 美学者のティ・グエンは「明晰さの誘惑」という魅力的な論文において、有限な資源や能力しか持ち得ない私たちが、効率的に世界を理解するために「明晰さ」という感覚(あるいは「ハッとした感覚」)をもって思考を停止させてしまう危険を指摘している(Nguyen 2021)。 陰謀論や官僚主義的な数値主義は、人びとに明晰さを味わわせることで、世界の真理に気づいたと思わせたり、数値にないものは考慮に値しないと思わせたりすることができる。しばしば、こうした明晰さの気持ちよさは数字や図式に対して指摘されるが、私は、数字だけではなく、物語もまた明晰さ(物語的明晰さ)の甘い毒を作り出すことができてしまう、と主張する。 だが、その気持ちよさに抗い、相手を理解できないものとして尊重すること、それが物語的徳である。 もちろん、物語が必要になることもある。相手が特定の物語にハマっていたり、誰かが物語に閉じ込められて苦しんでいるとき、その物語から開放するためには、物語の魔力についてよく知っていなければならない。 ちょうど、薬が毒になること、毒が薬であることを理解しているから医者が病人を治癒できるように。物語の毒と薬、その両方を知っておく必要があるのだ。