信長打倒の機会を逃し続けた朝倉義景の「警戒心」
■一乗谷から離れる事を警戒する義景 義景は15代将軍となった義昭からの再度の上洛要請も拒否します。その結果、幕府への叛意(はんい)ありと判断され、幕府軍と織田軍による侵攻を受けます。この越前出兵の危機は、同盟者である浅井家が遠征軍の背後をつく蜂起によって救われました。 しかし、義景は一乗谷で騒動があったとして撤退し、幕府・織田軍への追撃が不十分となって、信長に勢力回復の機会を与えてしまいます。 続く姉川の戦いでは、義景は出馬せず朝倉景鏡を総大将として送り出したものの、朝倉・浅井軍は大敗しています。 志賀の陣では、義景率いる朝倉・浅井の連合軍は比叡山延暦寺の力を借りて、織田方に多大な被害を与えることに成功しています。義景自身は、比叡山で籠城しながら指揮を執りました。 ただし、積雪による長期間の足止めを恐れたのか、織田家に有利な講和条件で撤退します。 この頃から織田家による調略が激しくなり、家臣の離反が進んでいきます。 ■武田信玄から非難された義景 義昭が信長との対立から織田包囲網を形成すると、朝倉家は畿内に近いことで重要な存在となりますが、このころから義景は消極的な姿勢を示すようになります。本願寺との和睦が成立し、加賀や国内の一向一揆への心配がなくなっていたことも、義景の積極性を削いだ原因かもしれません。 武田信玄が西上作戦として三河方面へ侵攻し、朝倉家に共同戦線を依頼しますが、義景は一旦出兵したものの、本格的に冬が来る前に撤兵してしまいます。この時の信玄の怒りと驚きは相当なものだったようで、その旨の書状が残っています。 その後も信玄や本願寺からの再出兵の依頼を受けましたが、義景が再び兵を動かすことはありませんでした。そして、信玄の死去により危機を脱した織田家は浅井家の本拠地小谷城を攻めます。援軍を率いた義景は戦況の不利を感じ撤退しようとしますが、その動きを見抜かれて織田家による猛追撃を受けて大敗を喫してしまいます。 これを契機に朝倉軍は崩壊し、義景は家臣の裏切りによって最終的には一乗谷を放棄することになり、逃亡先の賢松寺にて自害します。 ■「警戒心」 朝倉家は国力が充実していたこともあり、幕府再興の中心勢力となれる存在でした。ただし、一門衆を含め家中の統制に問題があったようです。 そういった内部事情への「警戒心」の強さからか、義景は居城の一乗谷城を長期間離れることを嫌うところがありました。そのため、織田家を倒す好機を何度も逃しています。 現代でも、「警戒心」が強すぎるあまり、組織の防衛にばかり集中して、イノベーションや新市場開拓のチャンスを度々見逃してしまうことは多々あります。 もし義景が長期の遠征が可能な状況であったなら、朝倉家が天下布武を成し遂げられたかもしれません。 ちなみに、越前国は地理的に重要な場所だったようで、織田政権では柴田勝家(しばたかついえ)、豊臣政権では丹羽長秀(にわながひで)や青木一矩(あおきかずのり)、徳川政権では結城秀康(ゆうきひでやす)など一門衆や有力武将が配されています。
森岡 健司