信長打倒の機会を逃し続けた朝倉義景の「警戒心」
■居城一乗谷城に執着する朝倉義景 朝倉義景(あさくらよしかげ)は一般的に、戦国時代に越前国という有数の文化大国に安住し、新興の信長に簡単に滅ぼされた脆弱(ぜいじゃく)な武将として認識されていると思います。 しかし、義景は隣の加賀一向一揆から越前を守り、若狭武田家に軍事介入を行い支配下に組み入れるなど、領国防衛のためには積極的に活動しています。また、南は薩摩の島津家や北は出羽(でわ)の安東家など、全国の勢力と外交関係を持ち、敦賀を中心にした海外との貿易を模索するなど、越前の発展のために活発的に行動しています。 それにもかかわらず、義景の評価が低いのは、重要な場面で見せた「警戒心」による行動が原因だと思われます。 ■「警戒心」とは? 「警戒心」とは辞書によると「警戒する心。外敵の攻撃に対して、自分の身を守ろうとする気持。」とされています。「警戒心」が強いことを、別の言い方で用心深いとも表現されます。 「警戒」には命の危険が伴うような状況に対して注意するという意味があります。一方で「用心」は単純に注意や心配りをすることをさし、注意の重みが違います。 義景は「警戒心」が強く、本拠地である一乗谷から離れるのを嫌っていたと思われる節があります。 ■朝倉家の事績 朝倉家は現在の兵庫県の但馬国朝倉を出自とし、斯波(しば)氏に仕えると越前国に所領を得て土着します。室町時代には越前国の守護代として実権を握ると、一乗谷(いちじょうだに)に居城を置き栄えます。 そして、若狭や北近江にも影響力を持つようになります。祖父の貞景(さだかげ)の時代に一向一揆衆を駆逐すると、領国内の安定化に成功し、一乗谷に京文化を根付かせて繁栄させます。 義景が家督を継承すると、越前の安全確保のために加賀や若狭など隣国への軍事介入を繰り返します。 13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)が三好家によって暗殺されると、軟禁されていた弟義昭(よしあき)の脱出を支援し、越前国で保護しています。そして、義昭から再三に渡り上洛の支援を求められますが、義景は自国への影響を考え、その要望を放置し続けます。 業を煮やした義昭が、新進気鋭の織田信長の元へと移ると、時代が大きく動き出すことになります。 その後も義景の「警戒心」は強く、一乗谷から離れることを嫌い続けます。