不幸にならないために「適切な怒り」と「有害な怒り」を区別して自覚する方法
「怒り」には適切なものと有害なものがあり、区別して自覚することが重要になる。少年院で矯正教育に携わった著者が、自分も他人も傷つけてしまう「歪んだ怒り」に陥らない心がけを指南する。本稿は、宮口幸治『歪んだ幸せを求める人たち:ケーキの切れない非行少年たち3』(新潮社)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 「怒り」は当人の意思が あって生まれる感情 現在、怒りについて数多くの書籍が刊行されています。ただその大半が、怒りをよくないものとして捉えており、怒りを鎮めたり理解してコントロールしたりするといった、アンガーマネージメントのような方法論を説くものが多いようです。 古代ローマのストア派の哲学者セネカの『怒りについて』では、様々な角度から実例をまじえながら怒りを分析しており、その予防法や対処法も記されています。そこにはこう書かれています。 「怒りは決してそれ自身で発するものではない。心が賛同してからである。なぜなら、不正をこうむったという表象を受け取ること、それに対する復讐を熱望すること、さらに2つのこと、自分は害されてはならなかったということと報復が果たされなければならないということとを結びつけるのは、われわれの意志なしに惹起される類いの衝動に属してはいないからである」(『怒りについて』兼利琢也訳 岩波文庫) 自分が不当に扱われたことと復讐が正当化されると考えることを結びつける怒りは当人の意思であり、自発的なものなのです。
かのアリストテレスも自分が軽視されたり貶められたりしたと認識することで怒りが刺激されると述べていますが、それ以外にも、報われない、評価してもらえないことでも怒りが生じるでしょう。 また時には怒りは必要なものでもあります。例えば人種差別に対する、いわゆる正義の怒りのようなケースです。ですが、一方で怒りに支配されてしまうと理性的にいられなくなることも懸念されます。 ● 有害な怒りと適切な怒りを 区別して自覚しておくこと ニューヨーク市立大学のジェシー・プリンツ教授は怒りの恩恵を認めながらも、有害な怒りがあること、それらをそうでないものと区別することは可能であることを主張し、怒りが間違った方向に進むいくつかの状況を挙げています。 怒りの歪みによって明らかに歪んだ幸せにつながってしまう場合を、彼の論稿から抜粋・要約してご紹介します。 ・怒りの責任のありかを間違えること→自分自身の不満を他人に向けたり、職場での怒りを家庭に持ち込んだりすること ・怒りの対象を広げすぎること→コロナ禍におけるある国への怒りなど、怒りをある特定の人種に向けたりすること ・過剰反応して怒りを爆発させること→子どもの些細な失敗に対して過剰に反応し、虐待などをしてしまうこと