不幸にならないために「適切な怒り」と「有害な怒り」を区別して自覚する方法
・怒りのはけ口を間違えること→怒りを自分自身に向け、自傷行為や薬物依存などに至ること (『怒りの哲学 正しい「怒り」は存在するか』ニュートンプレスを参考に要約) これらのように怒りには適切なものと有害なものがあり、有害なものを区別して自覚しておくことは怒りの歪みを乗り越える上で有用です。 ● 「歪んだ怒り」が両者を 不幸にしてしまった 2023年6月、こんなニュースを聞きました。北海道小樽市のホテルの朝食バイキング会場で、観光で来日していた韓国籍の30代の女性が、同じく観光で来ていた70代の女性の肩を手で押し転倒させて両手を打撲するけがを負わせ、傷害の疑いで逮捕されました。 2人に面識はなく、朝食バイキング会場で加害女性が、被害女性の手荷物に足が当たったことなどを注意され、それに腹を立て傷害事件につながったようです。せっかく海外から日本に観光にきていたのに、些細なことで傷害事件の容疑者として逮捕されるのは、本当に馬鹿らしいことです。 加害女性の怒りは、先述のプリンツの分類で言えば、“過剰反応して怒りを爆発させること”に該当しそうです。
過剰反応してしまったせいで日本での楽しいはずの旅行が台無しになってしまいました。また、それは被害女性にも言えることで、どのように注意したかは分かりませんが、怒りによって、怒った人、怒られた人の両方に不快な思いが生じ、両方とも幸せから遠ざかることとなりました。 2人とも、旅行を通して幸せを感じたかったはずですが、幸せになるために欠かせないものの1つである“不当に扱われたくない”といった強い思いが、歪んだ怒りに変わり2人を幸せから遠ざけてしまったのです。 概して人は、平等に扱われたい、大切に扱われたい、尊重されたいという普遍的な欲求を持っており、これらが満たされることが幸せに繋がっていきます。 これらが阻害されないように、つまり自己の尊厳を守るために、ときには自らの気持ちや主張を押し通したくもなるでしょう。そこに怒りの表現が生じることもあり得ます。自己の価値を下げるようなものに対して怒りを感じることは決して悪いことではありません。 ただ、その怒りが表出されるトリガーポイントや閾値は人によって異なりますし、また誰にどんな状況で阻害されたかによっても異なってきます。