「業績」にならないのになぜ書き続けるのか?...書き手に覚悟が問われる「知的ジャーナリズム」を支える3つの条件
<「知的ジャーナリズム」が生き残り続けるには、実践者と良識ある読者があってこそ。『アステイオン』100号より「IJ(知的ジャーナリズム)を支える3つの条件」を転載>【玄田有史(東京大学社会科学研究所教授)】
三省堂『新明解国語辞典』によると、ジャーナリズムとは「①新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどの、報道や娯楽機関(の事業)。②報道や娯楽機関によって作られる、大衆的な文化」と素っ気ない(あまり新解さんの関心ではないようだ)。 【グラフ】年代別、テレワーク移行による仕事満足度の変化 それに「知的」が付くと何が違うかわからないけれど、社会や世の中についてあらためて知ることができ、「なるほどそうなのか!」と感心したり、好奇心や興奮を覚えたりできるものをいうのだろう。 いずれにせよ、知的ジャーナリズム(以下では「IJ:Intellectual Journalism」と記す)に私もこれまで随分お世話になってきた。読者としてはもちろん、執筆を依頼され、そのときどきに考えていたことを自由に書かせてもらったりもした。 若い頃の寄稿で多かったのは、若者の雇用問題やその背後にある「希望」の問題などだった。その結果、思いがけない反響をいただいたこともあった。 学術雑誌に投稿が採択されたときにも悦びはあるが、それとは異なる感覚がIJにはある。サントリー文化財団の賞ではないが、求められたのは学術よりは学芸だったと思う。 個人の関心や価値が多様化するなか、IJには論争を含め、人々の思いや考えを集めて、ともに議論する場を提供し続ける役割が少なからずある。 IJがこれからどんな議論を喚起していくべきか、具体的にはわからないが、その時代の人々の潜在的な疑問などを汲み取ったテーマを、「本当か?」といった逆張り気味に半歩先を行くくらいの感覚で提供し続けるのが肝要だろう。 バブル経済崩壊後の1990年代には若者が働くことについて、「自分らしく働きたい」とか「自分に向いた仕事が見つからない」といった、自分探しにまつわることも多かった。 それが2000年代に入り、後に就職氷河期と呼ばれるような長期不況に突入すると、「何度も面接におちまくる」「居場所が見つからない」など、経済悪化や社会的孤立が大きく影を落とす状況になった。 2000年代後半にリーマンショックが起きると派遣社員などの非正規雇用が大きな社会問題となり、2010年代になって「ブラック企業」「パワハラ」などが人口に膾炙される頃には「働くのが怖い」といった意識も強まる。 今では人手不足で仕事こそあるものの、働くことに「期待も希望もない」などの冷めきった職業観が若者に広がりつつある。 これから若者の働く状況や意識は、どうなるのか。安定した暮らしにつながる仕事、趣味や推しを可能にする収入、職場の仲間とのつながりなどに加え、自分なりの楽しみや誇りを誰もが見つけられる働き方が広がってほしい。 社会の行方を長期的に左右する若者を取り巻く問題は、これからもIJの主要なテーマの一つだろう。 ところで、多くの関心を呼び、議論を喚起するIJとは、どのようなものなのか。3つくらいの大切な条件があるように思う。 ■①IJには、編集者の目利きが必要である。 IJのなかには、執筆者が持ち込んだ原稿を編集者(編集委員会を含む)が読み、掲載を決める場合もあるが、実際にはそれほど多くない。 大体は編集者が刊行や特集の趣旨に合致した書き手を探し出し、依頼して執筆にたどり着く。それは、SNSのように書き手が自由に投稿して発表されるものとの一番の違いだ。それだけIJにとっては編集者が重要ということでもある。 同時にそれは編集者の目利きがIJには求められることを意味する。権威のあるIJであれば、伝統を武器に売れっ子の執筆者を抱え込み、恭しく執筆を依頼して読者にそれなりの満足を与えることはできる。 だが、それだけではなんとも退屈でいつかはマンネリになる。むしろ「こんな書き手がいたのか!」という新鮮な驚きを読者に呼び起こすことこそ、編集者の醍醐味ではないか。IJはつねに「スター誕生」の場でもある。 では、編集者はどうやってスター候補を発掘するのか。ケータイ小説が流行ったことがあるが、ネットのSNSの投稿から、地道に書き手を探すこともあるだろう。知り合いの知り合いのツテを頼りに、とにかく会って話をしてみるのはこれからも有効だろう。 そして一度培った信頼が途切れないよう、ゆるく執筆者をつなぎとめるだけの関係構築力も、優秀な編集者には共通している。優れた編集者は情報収集力に長けているので(安くて美味しい店を知っていることが多い)、雑談も楽しくそこから執筆のヒントが生まれたりもする。 その点、『アステイオン』では目利きの編集委員が揃っているので、なにかと有利なのは間違いない。サントリー文化財団が編集事務局を担っているのも大きい。 財団といえば、学芸賞や地域文化賞が有名だが、受賞者以外にも、惜しくも受賞には至らなかったが、優れた書き手が多数いることを財団はよく知っている。それらの執筆候補者に関するデータベースを長年にわたり蓄積しているのは、これ以上にない強みだろう。 今後もIJが知的関心を喚起し続けられるかは、編集の力にかかっているというのは言い過ぎではない。 ■②IJには、書き手の覚悟が必要である。 かといって編集者だけではジャーナリズムは成立しない。組織に記者を抱えているのでなければ、内容に即した執筆者を外部に求めることになる。IJの場合、書き手の多くをフリーのジャーナリストか、研究者が担う。 だが、大学や研究機関に所属する研究者にとって、IJへの寄稿がさほど魅力的に映らない現実がある。 今や自然科学はもちろん社会科学や人文学の分野でも、国際的な学術雑誌に論文を投稿して採択され、多くの引用を獲得することがキャリアの開拓につながることになる。 そのため日々学術論文の作成や査読結果のリプライに全力で取り組まなければならず、のんびりとIJに寄稿したり、推敲している余裕などどこにもないのだ。 IJへの掲載が学術業績としてカウントされるのならまだしも、現在のアカデミックの世界では研究成果とは明確に区別されているのが一般的である。 科学技術振興機構(JST)が運営し、研究者情報を収集・公開している「リサーチマップ」でも、研究論文や学位論文などの「論文」と、雑誌掲載、解説、書評などの「MISC(その他)」は別扱いとなっている。多くの分野の若手研究者であれば査読付きの論文作成に死力を尽くす。 一方で、学術論文の執筆は、単著・共著にかかわらず、孤独な作業の連続である。懸命に書いても不採択になることが多く、掲載されても、引用どころか、誰からも関心を示されないのがほとんどだ。辛い現実に、研究自体が嫌になることすらある。 対照的に、IJの寄稿には編集者という力強い伴走者がいる。草稿に対し、ときに厳しくも的確なアドバイスをくれ、見違えるように内容がよくなることもある。 メジャーなIJへの掲載後は、地元の家族や親せきが自分事のように喜んで連絡してきてくれる(笑)。なによりたまにIJに寄稿することは、論文作成に疲れた頭をクールダウンさせ、リフレッシュの機会にもなる。 ただ、内容が素晴らしすぎて、大きな反響があると、いろいろと誘惑や色気が出てくるのは要注意だろう。ここで詳しくは書けないが、まともな学者の世界に戻れなく(戻らなく)なることもある。 反対に、多くの読者の目に触れることを意識して、内容が慎重になりすぎるのもどうかと思う。「大切なのはバランスです」といった曖昧かつ安易な表現で、自己防衛的に中途半端な締め括りをしている記述を見ると、破り捨てたくなる。IJに寄稿するときには、批判をおそれず、尖った内容を、覚悟をもって書かなければならないのだ。