《広島豪雨災害2年》100年に一度の豪雨にさらされた街どこまで復興できたか
自然と暮らすということ
広島市は南を海に、残りの三方を山に囲まれ、さらに市内中央部には太田川から枝分かれした6本の河川が通る典型的な三角州の地方都市だ。故に、昔から洪水に悩まされ、治水対策として昭和初期から戦争を挟んだ30余年の歳月をかけ、太田川放水路を1967(昭和42)年に完成させた経緯を持つ。
しかし経済成長と共に人口も増え、地価の高くなった市内中央部を嫌う住民は、ベッドタウンと呼ばれる自然の残る郊外に住むようになる。そしてその住居の近くには山があり、程度の差こそあれ『土石流危険渓流』が数多く存在する。 それは必ずしも行政が後手にまわった結果だけではなく、過去に土石流が起こり、なだらかになった土地に人が住み始めた為に、現在では砂防堰堤が作れないという場所も数多くある。
砂防堰堤の建設現場で監督に聞いてみた。「いずれ崩れるのであれば、いっそ山を崩して宅地に出来ないのですか?」。すると監督は「いえ、そもそも山は国有地ばかりではありませんし、傾斜がありすぎて技術的にも難しいのです」と、教えてくれた。
災害現場を取材中、鹿の痕跡を見つけることが度々あったが、可部東の工事現場を訪れた時に本物を見る事ができた。若い鹿が3頭、草をはんでいて7mまで近寄っても、逃げなかった。災害で山が荒れた為に食べ物が減り、里山に下りて人に馴れたのだろう。 地震や津波に代表される天変地異。風景や動植物なども含め田舎に多く残される豊かな自然には、勿論それらも含まれる。自然と共に暮らすのは、時に気持ちよく、また時には耐え難い苦難もある。それは人間だけの話ではない。しかし、願わくば、穏やかにうつろう美しい自然のままであって欲しい、と切に思う。 (写真・文責 友廣義明、広島市在住)