国民民主“玉木個人商店”からの脱却 キーマンは20歳で司法試験合格の超エリート 知られざる素顔を直撃
27歳の時に経験した米国留学をきっかけに、官僚から政治家の道へ
卒業後は大蔵省に入省。官僚から政治家を志すようになったのは、27歳の時に経験した米国留学がきっかけだったという。 「円高の時代で、日本と同じ給料でもずっといい生活ができました。逆に日本はバブル崩壊でこの先は悪くなるという予感がありました。国の行く先のレールを敷くのが政治家の仕事だとすると、官僚は引かれたレールの上を脱線させずに運行する運転士のようなもの。ただ、運転しているからこそ敷かれたレールの先が見えるんです。必要なのは戦後から続くレールを外れた新しいレールを作ることだと感じ、政治家になることを決断しました」 理由はもう1つあった。「自信のなさ」を払拭したい。その思いがあったからだ。 「国をかけた交渉の場で最後に国を救うのは、その人の人間性だと思っています。私は経歴から『エリート』と言われるかもしれませんが、アメリカの友人から『自信なさげに見えるよ』と図星を指されて、恥ずかしい思いをしました。そして、『肩書ではなく、個人で勝負のできる人間になりたい』と思いました。個人で評価される仕事の最たるものが政治家であり、選挙は究極の他力本願。個人として認められるのか、周りからたたかれても耐えられるのか。私にとって選挙こそがその試金石であり、自分を鍛える修行の場でした」 1996年、旧民主党結党に参加し、愛知県第2区から出馬して初当選。2009年からの民主党政権下では国家戦略担当大臣や内閣官房副長官を歴任した。退任後は希望の党を経て、国民民主党に参加。先の衆院選でも圧勝して10期目を迎えた。そして、玉木氏の処分を受ける形で代表代行に就任。同氏が役職停止の3か月間に何をすべきと考えているのか。 「代表が変わっても党や政策は変わらない。それを示すのが私の役目だと思っています。また、玉木のリーダーシップで進んできたこの党のチーム力を高め、各々の能力を最大限に引き出す機会にもしたいです」 ただ、代行とはいえ、存在感を高めてきた政党のトップに立っていることは事実。その状況も踏まえ、「政治家としての野心は」と聞くと、古川氏は大きな声で即答した。 「私自身はこの30年でまだレールを敷き直せていません。その役割を果たして次の世代につなげられるなら、自分の立場はどうでもいいと思っています。2012年、旧民主党の大敗で二大政党制の1つの流れが終わりました。イギリスではもともと階級闘争があり、アメリカは南北戦争の流れを汲んでいますが、右から左まで幅広くそろった日本では与党も野党も似たようなもので、本当の意味での二大政党制は難しい。与野党でゴチャゴチャやっていてもらちが明かないのであれば、与野党の枠の外で核になる存在が必要です。我々が小さくとも勝って残り、安倍政権以降、完全対立している与党と野党を結ぶ触媒の役割を担いたい。その先に、与野党を超えた政界再編があると思っています」 だが、玉木氏への処分には「身内に甘い」との指摘もある。古川氏は党の躍進の現状や一連のスキャンダルをどのように見ているのか。 「党も代表も、急に注目を浴びたことで舞い上がってしまった部分もあるでしょう。今のうちの党は実態以上に大きく見られていて、勘違いしてしまっているところもあります。代表にはしっかりと反省してもらわなければ困りますが、ここまで来られたのは代表の頑張りが大きいのも事実。玉木チャンネルのようなことは、私にはできないですから。ただ、今回の一件をいい機会に、“玉木個人商店”から脱していかないと」 与野党の枠組みから抜け、政局を左右する立場を手にした国民民主党。その一挙手一投足に国民が注目している。 □古川元久(ふるかわ・もとひさ)1965年12月6日、愛知・名古屋市生まれ。東大法学部卒。在学中の86年、20歳で司法試験合格。88年に大蔵省(現財務省)に入省し、94年に退官。96年、旧民主党公認で出馬した第41回衆院選で初当選。同政権下、内閣府特命担当大臣、内閣府特命担当大臣、内閣官房副長官などを歴任。17年、希望の党を結党し、その後、党幹事長に就任。18年、民進党と合流して結党した旧国民民主党に参加。党幹事長に就任。20年、新国民民主党設立に伴い、党国会対策委員長に就任。今年11月13日から党代表代行を務める。
佐藤佑輔