ロシアの軍艦が「津波」で大破した…かつての「南海トラフ巨大地震」の「衝撃的な様相」
ロシア軍艦を回転させた津波渦
函館での交渉を拒否されたあと、伊豆下田へ回航の要請を受け、遣日全権使節プチャーチンが乗ったロシアのフリゲート艦ディアナ号(帆船)は、1854年12月3日に下田港に単艦で入港した。ディアナ号は3本マストの2,000トン、大砲52門、488名の乗組員が乗船するロシアの最新鋭戦艦だった。プチャーチンは日米和親条約の締結を聞き、国境画定を含む日露和親条約締結を目的として下田湾(静岡県下田市)に停泊中だった。 【画像】「南海トラフ巨大地震」で日本が衝撃的な有り様に…そのヤバすぎる被害規模 交渉が開始された翌日12月23日、安政の東海地震が発生する。ディアナ号の『航海誌』には、9時15分に突き上げるような海震(海底の地震動が海水を伝播し真上の船を揺らす現象)と思われる震動が約2~3分継続したという。その約20~30分後に沖合から押し寄せた津波によって膨れ上がった海が下田の町を押し包んだ。数多くの船や家が山に向かって流され、船などの漂流物で建物がさらに破壊され流されていった。地震は2回、津波は昼までの2時間余に7~8回押し寄せ、そのうちの第2波が最大で波高は約5.7~6.7メートルといわれる。波は下田富士の中腹まで駆け上がったと伝えられている。下田の家屋のほとんどが流失倒壊し、全戸数875戸のうち841戸が流失全壊、30戸が半壊、無事だった家はわずか4戸しかなかったという。そして、溺死などによる死者は122人に上った。 湾内が空になるほど潮がひいた後、停泊していたディアナ号は湾内にできた大きな「渦」に巻き込まれ、錨を引きずりながら42回転したと伝えられる。ディアナ号のマストは折れ、船体は大きく損傷し浸水も激しく、甲板の大砲が転倒して下敷きになった船員が死亡したという。『ロシア海軍省の記録』には、「右舷の砲門が顛覆(てんぷく)して水兵ソボレフが下敷となって死亡し、下士官テレンチェフは足を挫折し、水兵ヴィクトロフは腰から下に裂傷(れっしょう)を受けた」と記述されている。船倉に海水が溢れ、食糧も軍用物資などもずぶぬれになってしまう。そうした混乱の中でも乗員たちは、流されてきた屋根の上にいた意識不明の下田の住民(老婆)を助け上げている。ディアナ号にとって何よりの致命傷は、艦を支える竜骨の一部がもぎとられ、舵まで失ってしまったことだった。応接係 古賀謹一郎氏の『西使続記』には、「毎分一尺五寸宛も浸水しているのに、27人の水兵は鐘の合図で整然と交代しながら、ポンプ、滑車、革桶(かわおけ)で、浸水を汲み上げ、昼夜寸時も休まない。若しこれが我が国の船であったならばとっくに沈没していただろう」と、艦を守ろうと昼夜兼行で必死に働く乗組員たちを遠望し記録に残している。 このような甚大被害を受けたにもかかわらず、プチャーチンはその日の夕方、津波災害の見舞いとして、副官ポシェートを筆頭に外科医や通訳を下田に上陸させ、負傷した住民たちへの応急手当を申し出る。手当てを受けた人たちはロシアの医師たちを神様のように拝んだという。この対応に幕府の応接係・村垣範正(むらがき のりまさ)は、いたく感服したと伝えられている。