ロシアの軍艦が「津波」で大破した…かつての「南海トラフ巨大地震」の「衝撃的な様相」
ディアナ号沈没
津波により大破し航海不能となったディアナ号は、自力航行できず、曳航され修理のため下田港から戸田港(へだみなと)に向かう途中に強い西風に煽られ、やむなく駿河湾の奥深く宮嶋村(現在の富士市)沖に停船した。そこで大砲などの銃器、弾薬、装備、積荷などのほとんどを荒天の中陸揚げした。1855年1月7日午前6時過ぎ、ディアナ号は地元漁民たちの小舟約100艘による曳航を再開。約3時間で5海里(約9km)進むが、強風にあおられ波浪高く激しく浸水し田子の浦三四軒屋(たごのうら さんよんけんや・富士市)沖で座礁沈没。幕府はディアナ号曳航中の難破に備え、救助用として六百石積みの船を伴走させていた。 この船には、幕府の役人とロシア人18名が乗り、指揮はロシアのエンクヴィスト大尉が取っていたといわれる。沈没船の乗員たちは、小舟による懸命な救助活動でほぼ全員が救出され、伴走船などで無事戸田などに収容される。こうした幕府の対応に『ディアナ号航海誌』には、「同情心のある日本人たちは、このときとても親切にしてくれて、艦が航行中に難破した場合の救助用として大きなボートを私たちに用意してくれた」と感謝の気持ちが記述されている。日本側の記録のひとつ、庵原郡寺尾村の小池太三郎が記した『年代記話傳(ねんだいきわでん)』では、「ヲラシア船(ロシア船)の儀は翌日朝、新浜村、三四軒屋浦に漂着仕候(ひょうちゃくつかまつりそうろう)碇(いかり)を卸し(おろし)、相繋ぎ(あいつなぎ)申し候」と書かれている。また『田子浦村誌』では、「航行中連日の暴風怒涛(どとう)に遭ひ(昔時は冬季西風連日吹き荒らみたりし由)入港することを得ず。當村宮島字三軒屋(さんげんや・富士市三四軒屋)沖に来り坐州(ざす)して動かざるに至れり」と書かれている。 また、沼津藩の祐筆(藩主に侍して文章を書く役職)山崎継述(やまざき つぐのぶ)の『嘉永七甲寅歳 地震之記』では、「戸田にうつらんとす折から俄に西南の風暴しく吹出て戸田に入る事を得ずして雄勢崎(おせざき)より駿河の国小須(おす)の湊に吹入らる異船はもとより破損して艪揖(ろかじ)もなく海上をのるになやミければ(中略)我船も大に破し原宿の海一本松と云所に漂着す(略)異船悉く(ことごとく)風波にくだかれ其夜のうちに檣(はばしら)も打れ水上の船飾りもミな破れて千本の浜にながれよる遂に異舶ハ小州の沖合いにしづミたり」と書かれ、田子浦の小須(おす)ノ沖合いで沈んだことが地図に描かれている。(引き上げられたディアナ号の錨は、今も静岡県富士市宮島にある三四軒屋緑道公園に置かれている)。 乗艦を失ったプチャーチンは、直ちに帰国用の代船建造を幕府に願い出て、幕府もこれを許可。日本で50人~60人乗り程度の小型帆船を造り、上海から本国に救援を要請するつもりだった。修理予定だった戸田港で代船建造が決定され、幕府も全面協力に乗り出し、韮山代官(にらやまだいかん)で洋学者でもある江川太郎左衛門を世話係にする。ロシア兵は2組に分散し幕府の役人と共に陸路戸田に向かう。護衛の小田原藩に警護されながら行軍。沿道には多数の見物人が押し寄せ、珍しい行列を見守った。戸田では伊豆天城山の木材を使用し、近郷の船大工を集めて日露共同で日本最初の洋式造船が始まった。完成した船は「へだ号」と名づけられ、建造に参加した船大工は洋式造船の技術を習得する絶好の機会になった。