【横浜市の意外な顔】近代化の舞台「鶴見区」に存在した、2つの歴史的事実とは《秘蔵写真付き》
● 日本初の営業ダンスホール 当時の花月園には内閣総理大臣以下の政治家、与謝野晶子や森鴎外をはじめとした文化人も出入りしたそうだ。なかでも筆者が興味をそそるのは園内に作られた日本最初の営業ダンスホールで、外務省や海軍省の外国人接待にも利用され、外国の艦隊が入港すると将兵をここに招待したそうだ。「東洋一の遊園地」と呼ばれた園内に「紳士淑女の国際的な社交場」として一世を風靡した社交場「花月園舞踏場」があったのだ。 「1920(大正9)年に開業した日本で最初の営業用ダンスホールは、東京、横浜周辺の知識人に愛され、官公庁の外国人接待舞踏会としても利用され、谷崎潤一郎の『痴人の愛』や里見弴の『多情仏心』でも広く知られるようになった」と、現在の鶴見花月園公園の案内板に明記されている。 「ダンスホール花月園」は当時最先端のジャズやタンゴ、ラテンダンスミュージックが演奏された最初の現場であり日本における社交ダンス発祥の地だった。その因果は、その3世代後の私自身にまで繋がっている。私はラテンやブラジルの音楽と本場現地に関わり続け30年ほどとなる。 ちなみに、現在のキリンビール生麦工場は元々「玉井飛行場」だった。現在「生麦事件碑」が残る場所のすぐ海側だ。近所に在住の祖父は日本を代表する航空機の開発設計者、設計指導者のひとりとして、戦前のカラー印刷の専門誌に連載を寄稿していた人物だった。曽祖父より花月園内に限らず海外・外国人と関わりがあったが、祖父は欧米の舞台芸能・映画・音楽に通じ、宝塚最古の映像を撮影したカメラマンでもあった。 花月園には「西の宝塚・東の花月園」とも称された「花月園少女歌劇団」の活躍する舞台としても華やいだ時代があった。近所に日本最先端の現場があった関係もあり、祖父母と母は、鶴見のラテン社交ダンス会に参加していた。私は家庭内でよく流れていたラテンやブラジルの音楽を聴いて育ち、その後『地球の歩き方 南米1 1996~1997』だけを頼りに(まだインターネットも普及する前)単身ブラジルへと渡り、その後、長年活動する事になった。 そしてブラジルの音楽を通じて、アントニオ猪木さんで知られる猪木家との繋がりができた。のちになって、鶴見区生麦、岸谷のご近所同士であった事を知り、お互い驚いた記憶がある。