水木しげると松本零士。娘が語る巨匠の素顔「水木の娘として今後は生きるんだと、肝が据わったのが40歳頃。小学校の教員を辞めて、水木プロへ」
〈発売中の『婦人公論』11月号から記事を先出し!〉 漫画やアニメで今も親しまれる『ゲゲゲの鬼太郎』の作者、水木しげるさん。『銀河鉄道999』をはじめ、人々のロマンを掻き立てる作品を多く手掛けた松本零士さん。ともに父亡き後、プロダクションの代表に。娘が語る父親の素顔は――(構成=大西展子 撮影=大河内禎) 【写真】フロリダのケネディ宇宙センターを訪問した摩紀子さんと父・零士さん * * * * * * * ◆「漫画家の娘」から逃れたかった 原口 摩紀子さんと初めてお会いしたのは、東映アニメーションの清水愼治プロデューサーが引き合わせてくれたのがきっかけ。水木プロダクションも松本先生の零時社も同じ家族経営なので、「いろいろ情報交換ができるし、絶対に2人は気が合いそうだから」と。 松本 私が本格的に父の仕事を手伝うようになった頃ですから、5年前ですね。 原口 私、摩紀子さんと会うとホッとするんです。同じ感覚で話せるから話しやすくて。 松本 私が「子供の頃はなるべく親から離れていたかった。できれば自分のことを誰も知らない学校に行きたかった」と話したら「私も同じ」とおっしゃって。私はいつも「松本零士の娘」と言われるのがつらかったから。 原口 私は絵を描くのが好きだったけど、「お父さんが漫画家だからうまいんだね」と、必ず父と関連づけられてしまう。それがイヤで、父とは切り離して私のことを見てほしかった。 松本 中学生になると、小学校の時より広い地域の生徒が集まりますよね。ちょうど父の漫画がアニメ化されてヒットした後でしたので、何かと特別な目で見られるわけです。目立たないようにひたすら気をつけていたけれど、やっぱり親からは逃れられない。それを認めるまでにすごく時間がかかりました。
原口 私は40年かかったかな。父が徐々に弱ってきて、これは私が手伝わなきゃいけないな、水木の娘として今後は生きるんだと、肝が据わったのが40歳頃。小学校の教員を辞めて、水木プロに入りました。 松本 そもそも教員になることに反対はなかったのですか。 原口 父は、どうせ教員採用試験に落ちるだろう、その時は水木プロに入れるぞ、と手ぐすね引いて待っていたんです。ところが合格してしまったから、ものすごくガッカリしてた。家族の中で喜んだのは私だけ。自分でケーキを買ってきて、一人でお祝いしました。(笑) 松本 私も大学を卒業して一度は興行関係の会社に就職したんですけど、うちは母(牧美也子さん)も漫画家ですから、家のほうがかなり大変なことになっていたので、会社を辞めまして。 漫画の仕事を手伝うというよりは、多い時には10人ほどいたアシスタントの賄いを担当しました。家事援助の方にサポートしていただいた時期もありましたが、途中からは私一人で1日2食。バランスを考えて主菜、副菜、汁物を作らなきゃいけないので、もう大変で。 原口 両親が漫画家だとアシスタントも2倍ですものね。 松本 それが、画風も全然違うのにアシスタントは2人共通なんですよ。母の描いたレディースの色っぽい原稿が机の上に置いてある横に、父の戦争物がマグネットで留めてあったり。 原口 水木プロはアシスタントが多い時は5、6人いましたから、母が週に2、3回夕食を作ってましたね。独身男性が多かったので、おふくろの味は喜ばれました。特に具だくさんの餃子が人気でね。結婚したアシスタントの一人があまりにも母の餃子を褒めるものだから、奥さんが「もう私は餃子を作りません」と言ったと聞きました。 松本 本当においしかったんですね!
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