東大出身者が出世するのは 「学閥のおかげ」ではない ――元文部次官が語った東大卒と私大卒の「決定的な差」とは?
「普通教育」の呪い
では、「実力」とはなにか。澤柳が示すのは、やはり「普通教育」で養われる力である。東大出身者は、小学校6年、中学校5年、高等学校3年の14年間、国語・数学・地理・歴史・物理・語学などの「普通教育」をみっちりと受け、優秀な成績を収めた。一方、私学出身者は中学校すら不完全なままで専門教育に進んだ。 「普通教育」とは、「樹木に譬ふれば其根を張つて居る地盤の如きもの」だと澤柳はいう。「普通教育」の効果は大学在学中や就職してすぐにはあらわれず、「五年十年の後」になって出てくる。要するに足腰の強さであり、伸びしろということである。それが「文官高等試験を受けたる際に就てはよし同等であるとしても年所を経るに従つて一は発達して已まず、一は発達をなさないという違ひ」につながる、と澤柳は主張する。 私学出身者の「普通教育」の不十分さは、そのまま彼らの欠点につながっている。澤柳は、「進んで私立学校出身者の欠点を露骨に語つて見よう」と述べ、能力や人間性にまで批判の矛先を向けた。私学出身者は、第一に外国語ができない。語学ができないので最新知識の習得もおぼつかないから、将来にわたって学識向上の見込みがない。第二に、「高尚なる品格」がない。第三に、大局観がなく、視野が狭い。第四に、責任や規律の観念に乏しく、「横着」である。これは、官私の教育のあり方の違いに起因する。 私学の「学力」に対する不信感は、結局のところ正規の学校体系で得られる「普通教育」に欠けるということが最終的な根拠となる。だから、いくら難関の文官高等試験や判検事試験に合格しても不信感は消えない。これらは一発試験である。学校のカリキュラムを無視した試験のためだけの勉強や、受験テクニックの駆使で対応可能と考えられてしまう。 たしかに私学法科出身の「下士官」候補生は、帝大法科出身の「将校」候補生から、無試験で司法官試補にも弁護士にもなれるという「特権」を剥ぎ取ることに成功はした。だがそこに開かれていたのは必ずしも前途洋々たる未来ではない。私学出身者が試されることを嫌がった「普通教育」における「学力」は、結局のところ「五年十年の後」に効いてくる、という澤柳の呪いの言葉が響く未来だったのである。 ※本記事は、尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮選書)に基づいて作成したものです。
尾原宏之(おはら・ひろゆき) 1973年、山形県生まれ。甲南大学法学部教授。早稲田大学政治経済学部卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。首都大学東京都市教養学部法学系助教などを経て現職。著書に『大正大震災 忘却された断層』、『軍事と公論 明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男 丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』、『「反・東大」の思想史』など。 デイリー新潮編集部
新潮社