こんなに速かったのか…120年前の「日本初の電車」が御茶ノ水~中野間で要した時間が驚きだった
● 現在と6分しか変わらなかった 御茶ノ水~中野間の所要時間 「デ963形」の全長は約10メートル、当初は1両(単行)で運転された。今の中央線各駅停車は20メートル車両10両編成なので、120年で全長は20 倍、定員は50倍になった計算だ。 さすがに車両は120年の差を感じさせるが、運行形態は私たちが想像するよりはるかに先進的だった。国営化された1906年の記録では、御茶ノ水~中野間の所要時間は28分、運転間隔は6分間隔だった。 今の中央線各駅停車は同区間を22分で走っているので、6分しか変わらない。「デ963形」の最高速度は時速30マイル(約48キロ)と現在の半分程度だったが、御茶ノ水~中野間は駅間が短く、トップスピードで走る区間が少ないため、それほど差がつかないのだ。ちなみにこの頃はまだ「通勤ラッシュ」が存在しないため、朝から夜まで6分間隔で運転していた。 甲武鉄道最大の特徴は都心に深く乗り入れていたことだ。当時、東京市内(都心)には、官設鉄道(東海道線)の新橋、日本鉄道(東北線、高崎線、山手線)の上野、総武鉄道(総武線)の両国といったターミナルがあったが、都心のど真ん中には到達していなかった。 その中で甲武鉄道は外濠を活用して市街地を避け、道路と立体交差して御茶ノ水まで乗り入れた。当時は辺鄙な郊外だった新宿、中野は都心と直結され、住宅地として急速に発展した。
● 大都市で郊外移住が進み 本格的な通勤ラッシュに 1906年の鉄道国有化以降、都心の電車ネットワークは急速に発展した。1909年に山手線上野~新橋間が電化され、1両編成15分間隔ながら電車の運行が始まった。車両は車軸の数を倍にして全長を伸ばした「ホデ6100形」が導入され、「デ963形」から定員が3倍近く増えた。これで池袋から外回りで上野、渋谷から内回りで新橋に出やすくなり、池袋・新宿・渋谷が三大副都心に発展する礎となった。 続いて110年前の1914年12月20日、東京の玄関口として東京駅が開業し、東京~横浜間の電車「京浜線」の運行が始まった。(ただし京浜線は設備不良ですぐに運行を中止し、運転再開まで6カ月かかった)。東京~桜木町間の平均速度は時速41キロ、所要時間は45分、これも現在の時速46キロ、40分とほとんど変わりない。 大正期の日本は第一次世界大戦の特需に沸き、商工業が急速に発展。東京や大阪など大都市では、環境の悪い都心から郊外に移住し、都心まで電車通勤する生活スタイルが定着した。前近代的な職住近接・一体から、オフィスや工場に通勤する職住分離へ時代が変わることで、本格的な通勤ラッシュが起こるようになった。 その後、電車は都心に乗り入れていく。そもそも東海道線、東北線などが都心まで乗り入れしなかったのは、江戸以来の市街地があり、用地買収が困難だったからだ。しかし東京が発展・拡大する中で、鉄道空白地帯を埋める必要があり、15年以上をかけて都心を縦断、横断する鉄道が整備された。