【ラグビーコラム】これからのラグビーを考える。(渡邊 隆)
今年度の大学ラグビー選手権決勝が、秩父宮ラグビー場でおこなわれることが発表された。 長い間、ラグビーの早明戦、大学選手権準決勝、決勝が当たり前のように国立競技場でおこなわれてきた歴史があり、そこで繰り広げられる数々の熱戦を、6万人を超える観客と共にテレビを通して全国で感動を共有してきた文化があった。 今年、その国立でのラグビーの伝統が途切れた衝撃を考えてみたい。 2024年度ラグビー大学選手権決勝は、全国高校サッカー選手権との兼ね合いで秩父宮での開催が決まった。来年度以降も、どうなるかは未知数である。 日本ではラグビーの競技人口が10万人を割り、大学ラグビーの観客数も減少の途を辿っている。 昭和の時代にはラグビー早明戦のチケットを入手するのは困難で、プラチナチケットと呼ばれた時期もあった。早明戦前日には両校の寮に朝のテレビカメラが入り、選手へのインタビューはなく、寮の中庭で柔軟体操をしている光景や、朝食のホールなどを生中継で全国放映していた時代である。 1月15日、成人の日におこなわれた日本選手権は、社会人チャンピオンと学生日本一が激突するというラグビーファンのみならず、多くの日本人が固唾を飲んでテレビでラグビーを見ていた時代でもあった。 毎年選手が入れ替わる20歳前後の若い学生が、年上の大きなベテラン選手に立ち向かう姿が美しかった。 ほとんどがねじ伏せられるけれど、時々、学生が社会人に勝つことがあって、それがまた日本中を興奮させた。 ラグビーはあまり番狂わせがない競技と言われる中、小さな選手たちが大男を倒す姿に熱狂した。 僕の大学時代の夢は、「一度でいいからあの憧れの赤黒ジャージーを着てみたい」というものだった。 それが4年の立教戦で現実のものとなった。前の晩は大西鐵之祐監督から手渡されたジャージーを寮の二段ベッドの枕元に置いて、夢が叶った幸せにつつまれながら、いつまでも涙で寝つけなかったことを思い出す。 僕が小さな頃から強かった新日鐵釜石を日本選手権で見て、あの王者・釜石と学生として戦ってみたい、思い切りぶつかりたい。そして、勝っても負けてもノーサイドの笛と同時に、真っ先に森さんや松尾さん、洞口さんなどの釜石戦士のもとへ駆け寄り、握手を求めに行きたい。そんな儚い夢も描いていた。 しかし、大学選手権決勝で明治に敗れ、その夢は果たせなかった。 あの年は12月の早明戦前に、新日鐵釜石が早稲田の東伏見グラウンドへ練習試合に来た。しかし、早稲田側は数日後の決戦を控えていたので、レギュラークラスは試合に出さなかった。 大西監督としては、間近にゲームを見て、日本選手権の新日鉄釜石戦を見据え、勝つための方法論を思考されていたのではないだろうか。早稲田は手の内を隠しながらもBチームで戦い、善戦した記憶がある。 試合後、部室脇の立って入れるほどの深い大浴場に僕たちが先に入っていると、森さんと松尾さんが「寒い、寒い」と言ってお風呂に飛び込んできた。憧れの選手と一緒にお風呂に入れたことが、唯一の思い出として残った。 今の時代はまったく違うラグビーの風景が流れている。隔世の感を覚える。 世界のスーパースターたちを次々と獲得し、リーグワンでのレベルの高い戦いは、学生では太刀打ちできない別世界の存在となった。 一方、高校ではチームが組めないほどの部員減少に歯止めがかかっていない。僕の母校である安達高校も、ラグビー部は廃部に追い込まれた。 この日本のラグビー人気が低迷した要因は、歴史的に二つあると考えている。 一つは、1995年のRWC南アフリカ大会で日本代表がオールブラックスに17-145で大敗したことだ。 日の丸をつけて世界と戦う勇姿というものは非常にインパクトがあり、浅めのラグビーファンに大きな衝撃を与えた。ラグビー誌の購読者数も一気に減少し、いわば失望し、見捨てられた。 もう一つは、日本のラグビー人気を支えてきた早稲田、明治の低迷である。 明治は1999年度から約20年間、大学選手権決勝に出場できなかった。 早稲田も清宮克幸監督、中竹竜二監督の時代に5回優勝したのち、帝京時代に入ると決勝進出が2回のみで、10年間優勝できなかった。 2015年のRWCイングランド大会における南アフリカ撃破と、2019年のRWC日本大会における日本の躍進(アイルランド、スコットランドに勝利)によって、一つ目の負のイメージは払拭できたように思う。 そうなると、肝心なのは大学ラグビーということになる。 国立競技場で高校生たち(恐らくラグビー部員)があくびをしながら、つまらなそうにゲームを見ている姿を、以前のコラムにも書いた。 これからの日本のラグビー界を託す彼らが、ラグビーというスポーツに惹かれ、さまざまな困難を乗り越え、大学や社会に出てラグビーを続けてくれるだろうか。 一般の人々が寒風の中、外の競技場まで足を運び、そのスポーツを見に行く引力とは何なのだろうか。日本人はこれからスポーツに何を求めていくのだろうか。 日本代表監督も務められた大西鐡之祐先生は、最初のラグビーワールドカップが開催された昭和62(1987)年に「フレアーなラグビーから組織的なラグビーへ」と題して、このような文章を残されている。 「今までのラグビーは、フレアー中心の華麗なラグビーであった。ウエールズに代表されるバリー・ジョン、Gエドワーズ、J・P・Rウイリアムズなどの天才的なプレイヤーが、その状況に即応して動ける、直観によるインスピレーションラグビーが観衆の心を惹きつけ、ゲームとしても素敵だった。しかし、ワールドカップでニュージーランドが優勝し、これからは組織的で合理的なラグビーというものが勝利を占める。また、将来もワールドカップをやることになったなら、そういうラグビーが中心的な存在になっていくだろう」と予言されていた。 アマチュアリズムの権化と言われていたラグビーがついに、ワールドカップという商業化へ舵を切った年、大企業主導の大会へのさまざまな異論があった時代である。 現在の日本ラグビーの潮流は、各地のラグビースクールでラグビーを始めた少年たちが全国有数のラグビーエリート高校へと進学し、その後、強豪大学の門を叩く。そして、大学でも活躍できた人材だけがリーグワンへと進む。 そして、外国人選手とのポジション争いに勝った極一部の選手だけが日本代表の座を掴み取る。狭き門である。 小学生低学年からラグビーボールに慣れ親しんでいる選手に、高校からラグビーを3年間やった程度では太刀打ちできない圧倒的な差が生じている。 ましてや、自分のような浪人生活を経て、素人で大学からラグビーを始めた身長171センチの小さなフランカーなど生き残れない時代だ。 もう後戻りはできないパンドラの箱が開かれた今、パワーラグビーへと邁進するこのスポーツが、一般市民を巻き込みながら、ラグビーを知らない人でも、ラグビーの魅力、醍醐味を味わうことができるかにかかっている。 時代に即した変化を模索し、これからのラグビーがどのような姿(未来)を見せられるだろうか。これから生きる少年少女たちの心に響く、ラグビーが問われている。 【筆者プロフィール】 渡邊 隆( わたなべ・たかし ) 1957年6月14日、福島県生まれ。安達高→早大。171㌢、76㌔(大学4年時)。早大ラグビー部1981年度FL。中学相撲全国大会準優勝、高校時代は陸上部。2浪後に大学入学、ラグビーを始める。大西鐵之祐監督の目に止まり、4年時にレギュラーを勝ち取る。1982年全早稲田英仏遠征メンバー。現在は株式会社糀屋(空の庭)CEO。愛称「ドス」