やらまいか魂“オサム流” 鈴木修さん死去 「現場」愛した希代の経営者 地元経済人ら追悼と感謝と
独特の経営感覚と強力なリーダーシップを併せ持ち、やらまいか精神を貫いた。94歳で死去したスズキ相談役の鈴木修さんは、軽の「アルト」、小型車「スイフト」など長く愛されるクルマを発案して世に送り出し、新興市場のインドに先駆けて進出するなど、現在売上高5兆円規模のスズキグループの礎をつくった。地元経済人は「100年に一度の経営者」「あのような経営者は二度と現れない」と手腕をたたえた。 人口14億人と世界最大市場に成長したインド市場は修さんが「どこの国でもいいから1番になりたい」と他社に先駆けた。得意の小型車を製造し、現地の乗用車シェアは約4割とトップに成長した。 公私で関係が深かったハマキョウレックス(浜松市中央区)の大須賀正孝会長(83)は「インド市場を見いだした。経営力と情報収集力は同じ経営者として非常に尊敬していた。あんな経営者はほかにいない」と喪失感をあらわにした。 同じ岐阜県出身で、親交があったヤマハ(同区)の中田卓也会長(66)は「経営者としてもいろいろなことを教えていただいたが、圧倒的な熱量にはいつも驚かされた。心よりご冥福をお祈り申し上げる」とコメントした。 河合楽器製作所(同区)は2代目社長の河合滋さんの頃からトップ同士の付き合いがあった。河合健太郎社長(47)は「いつも何かと気にかけていただいた」と話し、2月に死去した3代目社長弘隆さんのお別れの会にも足を運んでくれたことに感謝した。 「ものづくりの原点は現場にある」-。現場第一主義を常に訴え、最晩年になっても「工場監査」と呼ばれる現場のチェックを欠かさなかった修さん。赤ペンを持ち、鋭い目を光らせ、気づいたことを書き込んで伝えるのが“オサム流”だった。 間近で支えた元スズキ会長の内山久男さん(94)=同区=は「『慢心しちゃいかん』が口癖」。スピード重視の経営で辣腕(らつわん)を振るったが、「ああ見えて非常に慎重派で、石橋をたたいて渡るような人だった」と人柄を振り返った。 修さんは「飛騨の山奥の農家」で育ち、終戦後、銀行員を経て、1958年、鈴木自動車工業(現スズキ)に入社した。入社当時の同期生だった元県民生部長秋山一男さん(88)=藤枝市=は「年齢は彼が上だが、冗談を言ったり分け隔てなく、仲間を大切にしてくれた」と思い起こす。「経済人として浜松地域の勢いをつくり、地元出身ではなくとも『やらまいか』の人だった」としのんだ。
静岡新聞社